革命の史実

◆革命の継承

c0142134_15325510.jpgc0142134_15362991.jpg 山田純三郎は押し殺した声で呟いた。
 「慎ちゃん、日本に帰ろう」
 「伯父さん。今度のことは私情が原因で中止すべきのことではありません。孫さんの遺志です」
 佐藤はこれから展開するはずであった遠大な計画を目の前にしての中止に、やり切れない気持ちで再び山田に翻意をうながした。
 「伯父さん…」
 山田は心の鎮まりをみずからに言い聞かせるように
 「いや、帰ろう 残念なことだが仕方がない」
 それは永い沈黙だった。
 「孫さんはいつも言っていた。『革命は九十九回失敗しても最後に成功すればいい』と」
 山田は自分の身に降りかかった宿命というべき事情と、己に溶け込んだ孫文の遺志に立ち止まってはいられないアジアの憂慮を、私事の囚われや拘りを超越した姿で無言のうちに教えているようであった。

 山田は落胆する佐藤に静かに語りかけた。
 「廖さんにも連絡しよう。お母さんが待っていたら申し訳ない」
 慚愧の気持ちを振りはらい次の布石をうつ山田の言葉に佐藤はしぶしぶし従った。
 「これは両大人の面子とアジアの将来を賭けた大事業だったがいずれ志を継いだ人間の意思に任せるしかない。そのうち孫さんのように国家民族に囚われないアジアの大経綸を唱える人間が現れるはずだ。慎ちゃん。それは日本人かもしれない。いや明治維新を成し遂げたとき西洋列強に蹂躙されていた全アジア民族の光明であった、あの日本人の姿が再度、よみがえるならその資格はある。孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジアに協力するならアジア全民族はこぞって歓迎すると。僕はもう齢だ。慎ちゃん、世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」
 
 どこまでも冷静に語りかける山田の姿は、立ち止まってはいられないアジアの現状と、孫文ルネッサンスというべき運動の継続でもあった。
 「慎ちゃん、その仕事に比べれば今度のことは小さいことだ」
 佐藤は信じて疑わなかった成功と、その結果、訪れるであろうアジア安定の礎である両岸に対峙する両雄の交流端緒を思い起こすのであった。
 
◆孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人

 山田純三郎は青森県弘前市出身、生家のある在府町の真向かいの家は明治言論界の重鎮、陸羯南が住んでいた。幼少は「純コの馬鹿」と言われたくらいに愚鈍な少年であった。兄、良政は物静かで思慮深く、陸羯南に可愛がられその影響から当時、上海にあった東亜同文書院の教授として渡り、孫文の唱えた辛亥革命に挺身した日本人最初の犠牲者として恵州で戦死している。
 兄の後を追って革命に挺身した純三郎は、孫文の側近として臨終に立ち会った唯一の日本人でもある。

 革命史実はその後の体制が取りまとめるものですが、臨場事実については革命のさなかは当事者の口述、文章記述は情報漏洩の意味もあり、普通は書残さないものだ。後世の歴史家や研究者は年代を追って記述を取りまとめ、文章体として記録しているが、それさえも登場人物の高名無名、はたまた背景にある体制の都合によって作文されたり名利のための虚偽宣伝のネタにされることもある。

 山田のそれはすべてが体験口述のため「歴史家」「研究者」と称される人とは趣を異にするが、史実そのものは臨場体験でしか味わうことのない事実そのものの姿が現れている。
 「孫さんがなぁ…」ではじまる山田の語りは、歴史に興味のないものにも人間学として、あるいは、利害得失、枝葉末節といった思考の観点しかなくなった現代人にとって、懐かしくも忘れ去られたかのような人間像を思い起こさせるものでもある。

 革命や改革といった状況の中での緊張と挫折、あるいは土壇場における思考や行動は平常時では想像もできない人間の姿として現れるものである。逆に挫折や失敗はつきものとばかり、一刻の余裕に風雅を楽しむおおらかさもある。
 
 それは単なる高邁な論理の積み重ねではとうてい論証できることではなく、戦時下の混乱の極まりにこそゆきつく見解や直感力によって人物と事象をみることのできる山田ならではの言葉である。山田の話には必ずといってもいいほど枕言葉は決まっていた。
「孫さんはなぁ、世界をどうするか、そのためにはアジアはどうあるべきか、日中両国のかかわりは、そのためには自分は何をなすべきか、といったところに思考循環の原点を置き、行動の大義を唱えていたんだ。 それだからこそ我が国にも国家民族を超越してアジアの安寧を考え、今、日本人として何を行うべきかを自覚した多くの賛同者が現れたんだ」
 しかし、そこは革命である。大言壮語の壮士、利権に目ざとい財閥、虎視眈々と模様眺めの列強諸国など言語に表すことに憚るような逸話も数々あることも事実だ。
 そのような佐藤の問いには「色々とある」
 
◆刺客が襲った同志・陳基美
 
革命事情を熟知した山田純三郎ではあるが、根底にある日本人の矜持を思い巡らすのだろう語ることは少なかった。それでも革命同志である陳基美、戴天仇、廖仲愷、蒋介石、黄興、湯恩伯、丁仁傑、胡漢民らの話になると身を乗り出して熱中する山田であった。とくに陳基美については終生、心に刻まれた深い体験がある。
 
 山田は陳基美について語るとき、革命の悲惨さとその真実の継承を佐藤に求めた。
 清朝官警の執拗な摘発を逃れるため満鉄病院の一室を革命拠点として活動していたときがある。奥さんは日本人の看護婦長をしていた人で、男子一人をもうけている。革命後、北京にいた軍閥袁世凱と南京を拠点にしていた革命派との主導権争いが徐々にその激しさを増していたころ、革命派幹部にたいして袁世凱の刺客による執拗な攻撃がなされていた。

 当時、外国人とは不要な衝突を避けようと、租界と称して各国居留民の生活圏があった。列強の侵入者たちの行為は似たり寄ったりだが "犬と中国人は入るべからず"と厚顔無恥な看板が立てられたのもこの頃である。フランス租界にあった山田の家は蒋介石や陳基美をはじめ革命同志の隠れ家として格好の場所であった。

 1916年5月、4人の刺客が乱入して一階にいた陳基美を三発の銃弾で射殺している。その時、山田は三階にいて難を逃れたが、一階では当時2歳だった山田の子、民子を腕に抱いてあやしていた女中は目の前に繰り広げられる暗殺劇に驚き、抱いていた民子を離してしまった。それによって長女の民子は脳に障害をきたし、70余年にわたる生涯、陳基美暗殺の衝撃を伝える証人として障害を癒すことがなかった。
 山田にとっては、老いてなお童女のような無邪気なほほ笑みをかえす民子は殺伐とした革命回顧の万感こもる優しい潤いでもあった。
 山田は中華民国の民と国をとって長女に民子、次女に国子と命名し辛亥革命の成功を祝っていてるが、兄良政を恵州に亡くし、長女民子の不具を引き換えに得た革命の成功は、異国の地で陥りそうな戦慄な体験の後に訪れる無常感に浸っている暇もないくらい次の目標に駆り立てる遺志の確立でもあった。

 陳基美だけではなく、なかには革命偉人と称される人たちの色恋の逸話や、失敗した話、あるいは決断の状況など、顔色、態度所作、現場の状況など存命ならば思い出話に華が咲くであろう叙述が汲めども尽きぬほど山田の口から湧きでる。


 ◆日本人の助力を無条件で甘受した孫文

 佐藤は二十数年の大陸生活で中国人が驚くほど流暢な北京語を使いこなせるが、山田の話は新たな中国観として砂に染み込むように吸収できる。日本人が想像や思い込みで見る中国観と、佐藤が体験した民衆とともに歩んだ実社会の姿とは似て非なるものである。だからこそ無条件の人情に応える民衆の姿から、真になにを渇望しているのかを読み取るのである。

 加えて歴史上くり返される圧政のなかで、表裏を変え戯れなければ生きてはいけない現実のなかで民衆と生活を共にした佐藤だからこそ熟知していることであろう。
 すがすがしいまでの革命に臨む姿は本当の人情を理解し、それには命を賭けて応えるという愚直なまでの誠実さが革命という目的の前に身体秘奥から浮かび上がってきたのである。今度こそ確信できるものが孫文にはあった。それに加えて全アジアの光明であった我が国の維新の根本的な原動力であった明治の人間力を備えた同志が、死を超越した価値を添えて助力を惜しまなかったのである。

 孫文はその動きをアジアの心地よい躍動として日本人の助力を無条件で甘受し、かつ革命成功への原動力として共にアジアの将来を確信したのだ。国内においては疲弊してもなお民衆が保守している人情の潤いを、まとまりのない砂のような民と例えるような団結のない民族の奮起接合のための一滴として活かし、外に対しては民心の安定と、中日の提携を軸とした同盟によって列強に立ち向かおうとしたのである。

 そこには単に支配者の交代や権益の確保といった今までのような功利的国内革命ではなく、革命の大前提となる指導者孫文の支那史観、世界観、文明比較論、民衆相互の信頼とをもとに西洋の覇道にたいするアジアの王道の優越性を唱え決起したのだ。
 それは従来の為政者にない実直な行動に裏打ちされた優しさと確信があった。独りで思索し構想を練り、陽明学でいうところの「狂」に到達したかのような希望と安心が、理屈では到底叶うことができないであろう民心の希望を誘引したのである。

 革命は矛盾を背負った行為でもある。しかも改革と違い革命は矛盾を調整するものでもなければ肉体的衝撃を回避するために稚拙な論拠をもとめる知識人を待つものでもない。血肉が飛び散る凄惨な殺戮もあろう。あるいは回避するための駆け引きや謀略もある。しかし民族、歴史に身を献ずる行為と、報償をおもい図って行為に走る区別は、生きているからこそ語れる論理だけでは正邪の秤の均衡を保つことができない。

 ◆原点となった「大志」の有無

 動植物の死類が積層する表土に安住する人々の思想から考え出された絵のような政策や、地政学的な経国の綱領はあっても、民衆は「食、色、財」の本能的欲求を自由に享受させてくれる指導者を望むものだ。
 
 為政者の政策はあくまで「話」(話…舌が言う)。とくに権力者の統治のための便法に面従腹背し、そのことがややもすると習性として染み付いた民衆に向かって、支那人としての自立と自覚を喚起し、心の秘奥にある自己愛を民族連帯のための公徳心として醸成することによって取り戻すであろう安心という人情の潤いによって構成された社会や国家の姿を、あらためて回帰させるために自らの行動と語り(吾を言う)によって表現したのである。
 民族の性癖や地域慣習を是認したうえに、さらに歴史の虐政に隠されたかのような奥潜む互いの人情の存在を、民族の誇るべき最大の優性資質として発揮できるように促した慈父のような存在でもあった。

 終始、孫文に添い日常の言動を知る山田だから言えることではあるが、この革命は支那の歴史を構成する大河泥流のような民情を基としない表層の政治学、人類学、歴史学といった知識人の稚拙な論拠ではなんら実証することのできないばかりか、大言壮語する革命家と違い、つねに民衆の下座に置いてこそ見ることが可能な惻隠の観察が革命決起の大前提であり、それは悠久の大地から萌芽した種のようなものとして、おのずから到達点を直感して疑いのないものと確信したものであり、孫文自身にとっても自己革命ともいえるもので、書物にはない歴史の事実であり行動の原点になる感動と感激の蓄積となるものであった。

 山田は縁者である同時に、唯一の理解者である佐藤を「慎ちゃん」と呼んでつねに近くにおいている。それは孫文が山田を終生、側近として時には叱り、激励した姿を彷彿させるものでもある。
 孫文にしても山田の兄、良政を革命初期の恵州義挙において亡くし、その弟である純三郎を国籍を問わず側近として重用したことは兄の義命を懐かしむものであり、現代風にいう知識、技術、財力、あるいは有用なものしか価値を見いだすことができない人間評価ではなくあくまで「大志」の存在の有無を原点としたからでもある。

 「義命」
 春秋左氏伝の巻12 成公8年「信を以て義を行い、義を以て命を成す」
 つまり信義、義名を立てて大国が回りの国々と交流している限り平和であり随うだろうが、それが崩れたときは中心とする大国は信頼を失い結局は解体してしまう、という意味がある。
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【ミニ解説】  

辛亥革命=1911年10月10日、中国同盟会を中心に武漢で蜂起、清朝軍の革命派も合流して、漢口総督府を占拠し、中華民国を宣言した。海外にいた孫文は帰国して臨時大総統に選出され、首都を南京と決めた。
 翌1912年2月、袁世凱らの裏切りで清朝が皇帝の退位を余儀なくされた。中華民国の基盤は脆弱だったため、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲り、以降20年間中国は軍閥が割拠する世界となる。
恵州起義=1900年10月、義和団の混乱に乗じて、孫文は鄭士良らを広東省の恵州に進撃させた。軍勢1万に及んだが、日本からの武器援助が間に合わず計画を途中で中止した。山田良政(左写真)が戦死したのはこの時。孫文はフィリピンで独立運動を起こしたアギナルド将軍との連携で日本から武器を調達したが、武器を積んだ貨物船が途中で沈没するという不幸が重なった。以降、中国各地で革命軍が武装蜂起するようになった。
 廖さん=日中国交の礎を築いた故・廖承志中日友好協会会長のこと。父親・廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民党の幹部として辛亥革命の孫文を支えた。
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by Ttakarada | 2007-10-30 15:41  

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