蒋介石総統からの招待

◆陽明山

「慎ちゃん、蒋介石から招かれている。一緒に行こう」 c0142134_1263391.jpg
 佐藤は山田から革命の同志であり、中華民国(現台湾)の蒋介石総統のことも聞いている。
 孫文の指示で山田、丁仁傑、そして日本名で石岡と名乗った蒋介石と満州工作に行ったこと、その結果、「だまされました」と、顔を真っ赤にして報告する真摯な蒋介石の態度に感銘したことや、宋一族の次女、美齢との結婚の折り、山田と大喧嘩したことなど、革命を通じた両氏のつながりは余人の挟む余地などないくらいの関係である。

 山田は宋美齢との結婚について相談に訪れた蒋介石にこう諌言した。あえて山田が諌言と称したのは当時、国民党の領袖としての立場を考えてのことである。
「君の功績は認める。しかし、いくら美齢が孫文先生の妻、慶齢の妹であり親戚になったとしても、あるいは宗家の財産が必要だとしても、あるいはそのことが国家統一の助力だ としてもそれは人の道に外れることだ。どうしても夫婦になりたければ妾にしろ」
 それ以来数年間、山田は絶交している。 

「結婚には条件があった。まずキリスト教でなければならない。本妻でなければならない。その他いくつかの条件が提示された。蒋介石は結婚していた女房をアメリカに追い出して美齢と盛大な結婚式を挙げたが自分は招待を断った」

 権力者となったが為に、より一層その権力を全支那において強固にするために考えた蒋介石の計略であり、民心掌握の置き所を錯誤した心のスキでもある美齢との結婚によって、いずれ招来するであろう権力の腐敗と堕落は、日本をはじめ列強の侵食を受けたように権力の腐敗によって衰亡した歴史の繰り返しを孫文の遺志をもって山田は説いたのである。

 権力者、蒋介石に疎まれようが、あるいは逆鱗に触れようが、山田の諌言はあの満州工作での真摯な態度に対する人間としての信頼と、辛亥革命の成果としての支那理想郷とアジア復興を希求した孫文の写し絵のような語りでもあった。
 終戦直後、それまで絶交状態であった山田に南京にいた蒋介石は「山田先生を護れ」と打電している。

 余談だが「恨みに報いるに徳をもっておこなう」と全中国に号令し在支邦人を多数の船舶を用いて帰還せしめたのは当時の情勢を顧みても歴史上、特筆される政策であった。
 そのことで戦後日本の大物代議士一行が総統面会の折り、そのことについて感謝の意を表したとき蒋介石は威儀を正してこう述べた。
「わたしに感謝は必要ない。あなたがたが感謝すべきはあなたがたの先輩に言ってください」
 満州国の日本国内にある財産問題が起こったときその時も蒋介石は「山田先生にお任せします」と担当者に指示している。

 戦後のどさくさに紛れて、ある名門財閥に勝手に処分してしまった満州国の日本人公使が山田に土下座までして許しを請うた場面を佐藤は目撃している。
 孫文は西洋の覇道に対して、東洋の王道の優越性を説いている。
 それは政治的な形態のみならず人格の問題をも含んでいる。
 辛亥革命の成功も物理的な武器、弾薬、策略のみで成功したものではなく革命に呼応した無垢なる民衆の犠牲と、その精神に畏怖の念を抱きつつ将来に継承しなければとうてい革命成功とはいえない。

 王道とは革命屋の破壊とは違い、いったん騒乱が平定した暁において、施政者が不特定多数の安寧をつねに憂慮することを革命をつうじて孫文が教えたと山田は理解している。
 「革命は血が伴う。しかしそこには敵味方の区別はない。あるのは無常感を包み込む忠恕がある。それが王道というものだ」と、山田は言う。
 その蒋介石からの招待である。
「そろそろ俺たちも齢だ。思い出話でもしたいのだろう」
 山田は飄々とした調子で佐藤の顔をのぞき込んだ。
 台北に着いたその日、山田は佐藤を伴って蒋介石の“お妾さん”の所に向かった。佐藤の印象では、品のある奇麗な女性であったという。蒋介石の邸宅は台北郊外の陽明山である。
 宴会に招かれた佐藤は山田と別々に陽明山に向かった。途中、車が故障してしまった。通りすがりの車もなく、宴会の時間には間に合わない。途方に暮れているとようやく陽明山に向かう車があった。一旦は通り過ぎたが、気がついたのか路肩に停まった。
 窓を下ろしてかっぷくのいい紳士が身を乗り出して声をかけた。
「どうしたんだね」
「蒋総統に招かれて陽明山に行きたいのですが車が故障して困っています」
 紳士はほほ笑みながら言った。
「それなら私も行くところだ。こちらに乗りなさい」
 会場は佐藤と、そのおかげで遅れてしまった紳士を待っていたかのように開始された。招待者がそれぞれ着席した。蒋介石は隣の山田と談笑をはじめている。日本人は山田と佐藤だけだった。

 見回すとさっきの恰幅のいい紳士が着席している。まずは出席者の紹介が始まった。国民党の重鎮、張群や軍人のなかにその紳士の名前が紹介された。
「何応欽将軍です」
 佐藤は驚きながらも軽い会釈をかわした。将軍は笑って返した。その後、佐藤は何応欽将軍を訪れ、近代日中史のさまざまな謎について聞いている。例えば西安事件前後の国民党内部の問題や、蒋介石がなぜ部下の要請にもかかわらず日本軍との衝突をためらったのか、など側近にしかうかがい知れない内容がある。
 宴会も佳境に入り中華宴席独特の乾杯が繰り広げられるなか、重臣も入り込めないような革命談義が山田と蒋介石の間で交わされている。それは革命同志のもつ独特の交歓であり世界でもあった。一瞬、会話が途切れ一同、山田の次の言葉に注目した。

「蒋さん、そろそろ私たちも齢だ。孫文先生に命令されて丁仁傑同志と三人で満州工作に行ったときのことを話してもいいだろう」

 蒋介石は即座に呼応した。
「ハオ ハオ」

 このことは孫文の一方の側面として国民党体制の「利」や建前として解釈していればとうてい認知できる話ではないが、東洋と西洋、当時のロシアの南下と支那の情勢、日本の国内事情、そして何よりも目標とすべき革命の成功によって究極の大経綸というべき日支提携しアジアを再興するという孫文の大志を互いに理解してのことである。
 蒋介石にとっても国内外事情、とりわけ大陸との問題や援助国アメリカとの調整、後に発生する旧来から台湾に居住していた内省人と、自分とともに台湾に渡った外省人との軋轢など、総統としての内憂が寝食生死をともにした山田との旧交懇親によって、革命当時の真摯な精神を呼び起こし、再度、国父孫文の大経綸に思い致したのであろう。

 通常の賓客接待にない和やかな雰囲気の中、一人の青年が用件を伝えて退室した。
「あの青年は」
 山田は肩を傾けて蒋介石に尋ねた。
「息子の経国です」
 山田はそう大きくない声で
「ベンコか」
 蒋介石は含み笑いをしている。
「佐藤さんいま山田先生は何と言ったのですか」
 重臣たちは気になる様子で佐藤に尋ねた。同じ同郷人であってもはじめて聞く言葉だが佐藤も解らないため山田に聞いてみた。
「一発だ」
「エェ」  佐藤は何がなんだか解らない。
「何が一発なんですか」
 隣の蒋介石は自分のことを何から何まで知っている山田の言葉に、日ごろの威厳を忘れ楽しんでいる。
「一発でできた子だ」
 意味はわかったが、何と訳していいか困り果てた。「蒋介石は女にもてる」と、山田はいうが佐藤はよくわからない。何番目の奥さんかはわからないが、数日しかいっしょにいなかったこともあった。言葉にするのもはばかる内容だが、その理由は山田から聞いて知っている。
 聞いてはいたが伯父と蒋介石との関係は史実にない事実である。 そしてつねに孫文先生の回顧から始まり孫文先生に帰る。宴会も終わりに近づき蒋介石が発言する。
「山田先生ありがとう。よろしかったら家も生活も心配要らない。いつまでもここにいて下さい」
 重臣たちも山田によって語られた総統のエピソードや、国父の経綸にふれて国家経営の指針を思い描いたとともに、国家の礎を築いた革命同志の旧交を眼前に見て、地位や格式を秤としない人物の交歓を時の経つのを忘れ、堪能することができたようだ。
 

◆ 回   顧


 佐藤は筆者にこう述回している。
「伯父は僕なんかにはあまりしゃべりませんよ。要人に呼ばれた席で話していること。伯父は僕ばっかり連れて歩くんですよ。息子たちは連れて歩かなかったみたいだ。蒋経国さんだけど蒋介石がいちばんはじめの奥さんと結婚して一晩で逃げたんだ。そして生まれたのが経国さんだ。奥さんは日本軍の南京爆撃で亡くなっている」

「招待された件だけれど、蒋介石さんに招かれれば普通はホテルに泊まるのですが、伯父の場合は大きな一軒家にボーイや、お手伝いさんを用意して何年でも滞在して下さいといわれるんです。招待されたとしても他の人とは意味が違う」

「生活はね、朝からテーブルいっぱいの料理が出てくるので伯父さんは『なんだ、朝からこんな贅沢をして』と怒るので、『伯父さん、残ったものはあの人たちが食べるので怒ってはいけません。あらかじめ分かって作るんですよ』というと、『おーそうか』と納得したことがある。」

「革命当時の伯父と蒋介石の関係だが、上海の伯父の家は革命の秘密本部でね、全世界の華僑から革命資金を送ってくるようになっていた。それを伯母が弾薬などといっしょに乳母車に子供を乗せて蒋介石の家に運ぶんです。当時の蒋介石のお妾さんは女郎屋の人で、私も一度ご馳走になったことがある。きれいな人だ」

「その次は陳潔如さんというひとで、蒋介石とは非常に仲良くて6、7年いっしょにいたはずだが、お妾さんにも陳潔如さんにも子供ができなかった」

「蒋介石は陳潔如さんが好きでいながら孫文の奥さんの妹、宋美齢をもらうというので伯父とはじめて喧嘩した。本妻や親類がけしからん奴だと、たいへんな問題になった。そんな環境のなかで息子の蒋経国が育ったわけだ」

「それゆえモスクワの孫中山大学へ留学したときに『打倒、蒋介石』を叫んだのだ。それと弟の蒋緯国さんは戴天仇と日本の旅館の女性で美智子さんという人の間に生まれた子供で、はじめは伯父が引き取ったんです」

「当時、蒋介石とお妾さんの間に子供が無かったものだから伯父は『これはおまえの先輩の戴さんの子供だけれども養ってくれんか』といったら、『わかった』といって養子にしてくれた。陳潔如さんはたいした人で、時折、癇癪をおこす蒋介石を上手にとりなし、革命同志のなかでは末席というべき黄埔軍学校の校長だった蒋介石を国民党の領袖にまでになったのは奥さんのおかげでもあったんだ」

「蒋緯国さんは来日すると私と会ってお母さんの話を尋ねてきた。蒋さんの子供は他には判らない。緯国さんは政治家としてではなく軍人として立派な人だ。1989年の天安門事件後に来日したとき、いろいろと話をしたが、そのときワイシャツのポケットに哀悼の意で黒いリボンが縫い付けてあったのが印象に残っている」

「伯父は蒋介石とその時々の立場を尊重し、なにが孫文精神の継承になるかを根底に、あるときは指導者としての資質を問い、また或るときは諌言や激励をともないながら革命の目指した崇高な理想にむかって挺身する同志の存在であった」

「たしかに、財閥孔祥熙につらなる宗一族の資金と、孫文夫人の慶齢の妹となれば政治的にも財政的にも強固になる。あるいは孫文革命の継承者としての責務が、目的のための手段として非難を承知で利用したのかもしれない。信念があれば人生の演技もたやすいことは分かっている」

「あの満州工作失敗のおり、顔を真っ赤にして真摯に詫びた姿からすればそれもありうる。ともかくそのような選択をした蒋介石も、列強やその影響下において跳梁跋
扈する侵入者の対策に追われ、国難というべき状況を国民党領袖としての責任として解決しなければな らない使命を負った愛国者であったはずだ」

「宗一族と縁戚の財閥孔祥熙や米国との関係や、国内に拠点を築きつつあった国際コミンテルンとの戦いを考えれば、蒋介石の立場上、その意図が理解できないわけではない。しかし、連合国の援助にまつわる物資、資金の不正にともなう腐敗は、孫文の遺した国民党の土台を腐敗させ、ついには民心の離反を招いたことは革命後の新生中国にとっては痛恨事にはなるが、内外の多面的圧迫と歴史に培われた民情を考えればそのこと全てが蒋介石の政策意志として葬り去るにはまだ時間を必要とするだろう」

 その後、大陸は中華人民共和国を率いる毛沢東、台湾においては大陸進攻を掲げながらも中華民国、国民党の領袖として互いの権力基盤の一応の安定をみたとき、蒋介石の招請を承けた伯父の訪台をきっかけに、伯父と革命の同志である廖仲豈の息子、廖承志を仲介とした蒋介石と毛沢東の関係開始の動きが起きたのだ。 成功していたらアジアは変わっていたはずである」

c0142134_1235220.jpg 佐藤のしぼり出すような回顧は『革命未だ成功せず』と、死後の革命継承を希望した孫文と、それに挺身した良政、純三郎兄弟の志操の継承者としての言葉でもある。
________________________________________
 【ミニ解説】
 蒋介石(1887-1975)は中国浙江省奉化県生まれ。1906年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学ぶ、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたといってよい。
 生涯、4人の妻を娶った。最後の妻は宋美齡であることはあまりにも有名である。浙江財閥宋一族の三姉妹の長女靄齡はビジネスマンでもあった孔祥煕に嫁ぎ、二女慶齡は孫文と結婚し、未亡人となった。1927年の三女美齡との結婚には二つの意味があった。
 一つは1925年に亡くなった孫文の義理の弟として、国民党の直系閨閥につながるということだった。二番目は宋家が国民党のスポンサーになるという意味だった。結婚の翌年、蒋介石の北伐軍は北京に入城し、中国統一を宣言した。後に兄の宋子文は約束通り国民党の財政部長となった。
 最初の妻の毛福梅との結婚は蒋介石が15歳のときである。そのとき毛福梅は4つ年上だった。蒋介石は生涯2人の男児を持った。台湾の二代目総統となった長男の経国は毛福梅の子供として1910年に生まれた。
[PR]

by Ttakarada | 2007-10-31 12:08  

<< 前章参考として 革命の史実 >>