幻の毛沢東、蒋介石会談



滞在から数日して山田が真剣な顔で佐藤に伝える。
「じつは蒋さんの依頼で大陸へ行く」

「大陸って、中共ですか」

「毛沢東主席に会う。慎ちゃんもいっしょだ」
 佐藤は驚いた。蒋介石は常々大陸進攻を唱えている。それが毛沢東主席と…
 しかも伯父さんが…
 山田はあえて事務的に指示をあたえる。

「廖承志さんを通じて毛主席には伝えてある。廖さんの母親が上海に迎えにくることになっている」
 廖承志の父、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は孫文の革命に山田とともに奔走した革命の同志である。その息子の廖承志は、子供のころに山田の腕であやされていた関係である。
 後年、廖承志は中日友好協会の代表として来日すると、まずはさておき山田の家を訪問している。こんな逸話も残っている。
 
大阪万博のおり、会場には中華人民共和国の旗、中華民国々旗である青天白日旗がひるがえっていた。それを知った廖承志は青天白日旗を降ろせという。ある識者はいう。
 そもそも青天白日旗は台湾の旗ではない。もともと台湾に国旗などはない。青天白日旗は中華民国を創設した孫文先生が認めた旗だ。あなたの父親は革命の志士として亡くなったとき盛大な葬式が挙行された。
 その柩は多くの人々の犠牲によって成立した中華民国の青天白日旗に覆われていた。 
 あなたの父廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民の悲しみのなか、国家と家族の安寧を願って旅立ったのだ。
 その国旗に覆われた柩にすがりついて泣いていたのは君ではなかったか。

 そんなエピソードではあるが、政治的立場と普遍的な人情は分別できる人間である。
 その廖承志が大役を引き受けたのである。山田を迎えにくる母親の廖香凝も中華人民共和国の要人である。双方、国際的事情もあろう。複雑に入り組んだ国内事情もあることは推察できる。

 だが、ともに国父と仰ぎ、けっして侵すことのできない孫文の存在を想起するなら『小異を残して大同につく』といった中華民族特有の思考を活用する大義も生ずるはずだ。
 幼稚で騒がしい知識人や、歴史を錯覚した政治家の類いをしたたかに排除した両国民衆は過去の恩讐や民族を越えてアジアの再興を願った孫文の大経綸に賛同するだろう。
 それはアジア諸国の期待でもあり、もちろん日本も例外ではない。   

 父の柩に涙したものは体制に翻弄された民衆の意志であり、廖承志の心そのものであろう。履歴を積み、縁あって両岸に対峙する毛主席、蒋総統にしても冷静にして自らに立ち戻ったときリーダーにしか垣間見ることのできない境地が存在するはずだ。
 廖承志はその意味を知っている数少ない幹部の一人でもある。毛沢東も蒋介石も解り得る人物である。分析、解析、思惑、作為は仲介当事者である山田にはない。まず毛主席に会って、顔を観て、声を聞いて話はそれからだ。

 死地を越え、孫文を心中に抱いた山田に気負いはない。緊張するのは両巨頭のほうだろう。
 山田は大事を前にして、郷里弘前の思い出や兄、良政に随うことによって生じた孫文との出会と革命の回顧、そして蒋介石との縁、そしてこのたびの行動を想い起してみた。孫文先生や兄、良政ならどうするだろう。

 1911年10月10日 革命が武昌で成功を収めた日、アメリカにいた孫文は急遽、帰国の準備を整え、上海にいた山田に打電してきた。

「横浜を通過して帰国したいから日本政府に了解を取ってほしい」
 山田は犬養毅に依頼したが日本政府は拒否。やむなく大西洋を迂回して香港に到着したのは12月21日だった。山田は宮崎滔天、胡漢民、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)とともに香港に迎えに行く。陸路北上は危険だから広東で様子を見るように勧めるが孫文は上海に向かうという。その上海に向かう船上でのことである。

「山田君、資金を作ってくれ」
 思い立つとせっかちと思われる指示のはやい孫文である。

「幾らぐらいですか」

「多ければ多いほどよい。一千万でも二千万でもいい」
 明治時代の一千万、山田にとっては見たこともない夢のような金額である。

「私にそんな大金は用意できない。無理です」
 いくら革命に必要だとしても一介の満鉄の職員にはどだい無理な話だと端からあきらめる山田に孫文は毅然とした姿勢で言った。

「たかが金の問題ではないか。しかもここは船の中だ。君はまだ何一つやってもみないででできないというのは、いかん。君のような考えでは、革命はおろか、一般の仕事だって成功するはずはない。上海に着いたら三井のマネージャーに相談しなさい。革命は何事も躊躇してはいけない」

 山田は静かに厳しく諭された孫文の言葉を反復した。
 こんなこともあった。中華民国臨時大総統に就任した孫文が南京にむかう車中のことである。当時、国旗が制定されていなかったので末永節は日の丸の小旗をたくさん抱えて同乗の皆に配った。

 豪気な末永は「孫さん万歳、染丸万歳」と孫文の頭を祓う格好をしながら繰り返した。車中は中国人も日本人も「孫さん万歳」の声で埋め尽くされた。
 頭山満、犬養毅とともに国境を越えた行動力と胆識をもった末永の豪気は、孫文をして民族融和の必要性を見たに違いない。 c0142134_21491893.jpg

 余談だが革命初期は、運動会で使うといって日本でつくらせたのが革命党の旗である。末永節は今の福岡にあった頭山満主宰の筑前玄洋社出身で頭脳明晰で豪胆な人物で、幕末に来航した黒船に乗り付け日本刀で船腹に切りつけたが歯がたたない。ひるがえって意識転換できる開明的なところがある。ふだんは褌もつけず素っ裸で庭掃除をするような豪傑でもある。臨時大総統をつかまえて「染丸万歳」とは末永らしいエピソードである。
 ちなみに染丸とは日本に亡命中知り合った女性である。

 南京臨時政府が成立し、国号は「中華民国」と宣言されたその翌日のことである。祝宴のドンチヤン騒ぎで今までの労苦を吹き飛ばしているさなか孫文が山田に言った。

「山田君、君はこれから上海三井の藤瀬支店長のところへ行ってください」
 孫文は三井と軍資金借用の件で約束をしていた。山田は祝宴の酒が手伝ったのか軽口をついた。

「商人の話なんか、そうきっちりとは、いかんですよ」

「山田君、君はまたそんなことをいう。藤瀬さんは一週間といっただろう。約束は約束だ。まだ本店から返事がきていないならそれでいい。できる、できないは別問題だ」

 以前、上海へ向かう船上で諭された時と同じように、山田は約束の重要さと積極的な行動について教えられている。

 孫文は山田の兄、良政との義侠の縁とはいえ純三郎をわが子のように慈しみ、あるときは叱り、又、あるときは激励しつつ共に分かち合った革命成功への感激と感動の体験を積んでいる。孫文が山田の父に贈った『若吾父』(吾が父の若(ごと)し)という感謝の書はいかに山田兄弟とのかかわりが誠実な関係であったかを表わしている。

 その関係からして確かに、今度の毛沢東、蒋介石交流の仲介に山田は最適な人材であろう。どちらに与する利なく、まして施して誇るような心地はない。抱く心はアジア諸民族が提携することによって平和の安定を確固たるものと希求した孫文の志操そのものの具体化であり献身である。

 あの日、宋慶齢夫人に促され「山田さんお願いします」と、ガーゼで孫文の口元に注いだ水は孫文の意志継承の神聖なる伝達であり、自らの生涯を真の日中友誼に奮迅する誓いでもあった。こぼれ落ちる涙は孫文の頬につたわり、まるで孫文のうれし涙のようであった。

 生涯の大部分を理想に燃える革命家として費やし、一時として休まることのなかった心身の躍動が、独りの孫逸山として己を探し求めた結果の答えとして、魂の継承を山田が受納する瞬間でもあった。
 
 それは革命精神の継続性だけではなく、終始行動を共にした孫逸山そのものの気風の浸透であり、むしろ悲しみの涙ではなくアジア王道である桃李の地への旅の潤いとして降りそそいだ。それは民族を越えた孫文の普遍なる精神が結実した瞬間でもあった。
 師父の死は山田にとって新たな革命の出発でもあった。それは支配者の交代といった功利に基づく覇道ではなく、あくまで東洋的諦観による王道の実践であり、遺志の継承であった。
 毛沢東、蒋介石仲介という大業に臨む山田の沈着さは、まさに郷里津軽で仰ぎ見た岩木山の風格であったと佐藤はいう。


  「桃李」   桃李もの言わず、下おのずから路を成す。
  人も徳が高ければ自然と人々が集まって付き従う(講談社編)
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by Ttakarada | 2007-11-01 21:53  

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