山田純三郎

山田純三郎

 
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疎んじられても期待をせざるを得ない状況と、なお警鐘をこめて熱情を注ぐ孫文の心には、多くの日本人との人格を認めた交流があったことを山田は、兄・良政の言葉とともに述べている。

「自分が孫さんの意志を頭でなく身体で理解し、ついて行けたのは上海から送られてきた兄の手紙だった。純コのバカと通称され、意気地なしの自分を激励し誉めてくれた九郎爺さんのお陰で、いくらか世の中に慣れてきたときだった。そのときの兄の手紙が、その後の自分の生涯が決定づけられたといってもいい…」

 幼少から同じような環境にあった佐藤慎一郎にとって、山田の話が手に取るように理解できる。佐藤も蚊帳のなかで菊地九郎と寝所を共にして得た、言うに言われぬ九郎爺さんの暖かみは、純三郎の思いと同じように生涯を決定づけるような無言の教訓だった。

 佐藤とて十幾つまで寝小便が治らず、自らを嘆いて親類の伯母の家に放浪し投宿している。
 菊地九郎は幼い慎一郎に優しく諭している。
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「慎坊は体が丈夫ではないから大きくなったらベコでも飼って生活したらいい」
 その後の師範学校当時のエピソードを語る慎一郎の成長は、まるで伯父、純三郎の幼少時、純コの馬鹿といわれた山田と似て、いかに九郎爺さんの存在が無形の影響として偉大なものであったかを、後の成長と両者の人生観の基として表している。
「それで、上海からの伯父さんの手紙の内容は…」
 山田純三郎は当時を思い起こすように、慎一郎に聞かせた。

兄良政より弟純三郎への手紙


「明治12年6月15日に書いたものだ」 c0142134_854059.jpg

 山田はそういって大事そうに何度も読み返された手紙をひろげた。

『初志貫徹、最初の志を枉るな。屈するな。やれるだけ実行することが大切だ。卑屈なことや、下賎なことに目もくれるな。大丈夫たるものは困難に困難を重ねることによってこそ初めてモノになる。女々しい心など出さずに、志を堅固にもち続けることこそがいちばん大切だ』

『たとえ、希望の彼岸に遠くとも志の一字さえあれば金石のような硬いものでも、ついには射貫くことができるだろう。大丈夫の尊ぶところは一つの志だ。志なるモノは人が教えても得られるものではない。自分自身のこころに発し、自分自身を奮起させてこそ、はじめて志しなるものができあがるのだ…』

 
山田も人間の価値として、ないよりはあった方がいくぶん重宝というぐらいの、地位、名誉、財力、学歴といった付属性価値よりも、革命のように土壇場の人間力や、なによりも大切な異民族に対しても、分け隔ての無い普遍な精神の醸成を理解するのである。
 山田は甥である慎一郎に伝え聞かすように語った。

「手段や方法ではない。人間の根本を兄さんは教えてくれた。子どものころ唐詩選の歌カルタをやるたびに何時もたしなめられた。だがその時とは違った自分を人間として認め、激励してくれた」

「何をやれ、どうしろ、といったこまごました指図はなかった。それは慎ちゃんも知っているだろうが、風で落ちた売り物にもならないリンゴを馬市に売りに行ったときに、九郎爺さんから、『純コ、おまえは勉強が好きではなく本も読まないが、一銭一厘まちがいなく届けてくれる。これは嬉しいことだ。人間というのはそういうことだょ』と、言われたことと同じで、自分の人生に終始、忘れずもっているものだ」 c0142134_813533.jpg
〈弘前城内菊池九郎の顕彰碑〉

「孫さんにも叱られるし、人生、叱られ、激励されながら生きてきたようなものだ」
 佐藤は、改めて自身の体験をとおして自得した精神の重要さを、山田の言葉によって再確認した。身内について語ることをはばかる佐藤だが、後に、あえて次世への提言として山田についてこう記述している。

『…純三郎は何事も、その解決のみちを他人に頼らず、自分自身に求めています。自ら苦難の道を求め、からだごと真っ向からそれに立ち向かっています。自分自身の可能性に挑戦していたのでしょう。しかも、他人が一度でできることを、純三郎は5回、10回とそれができるまで何回でも繰り返すことによって完成させています。純三郎にできたことは、ただそれだけでした」

「純三郎は逆境、苦難のなかにおいてこそ見捨てることのできない、いとおしい自分を発見していたのでしょう。だからこそ、純三郎はそうした苦難に耐え抜きながら少しづつ成長したのです。苦中の苦を経るたびにこそ、たくましい青年に育っていったのです。純三郎が南京同文書院第一期生として上海にわたったのは明治32年8月、23歳の時でした」

「機関車の掃除夫を辞めて、天下を大掃除しようとしたのでしょう。 『大丈夫たるもの、四海に志せば万里なお比隣のごとし』。純三郎にとって中国大陸の上海も、隣家のように近かったことに違いない」
 
佐藤は自らの気骨、気概を投影するように山田を語っている。時を違えたが、“純コ”“慎坊”と呼ばれた幼少時の愚鈍な少年が、ともに九郎爺さんに抱かれて見た夢は、先導役である兄良政の鮮烈な行動によって結実し、兄が身をもって示した死よりも崇高な精神の価値としての孫文の志操を伝播、継承することで開花したのです。
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蒋介石は革命の先輩である山田純三郎の死に当って献書している

山田純三郎先生記念碑(意訳)c0142134_821481.jpg

末永く、風義を懐う 〈風格、威〉
 蒋 中正 題す
山田純三郎先生墓碑

中国の国民革命が艱難辛苦とともに奮闘している時、革命党は、日本の友人山田良政とその弟純三郎の多くの助力を受けました。
山田良政先生が、恵州の役において、義侠的な使命に赴いて戦死した時、国民党の總理孫中山先生は、二度文章を作り同時に墓碑に親ら書いて、山田先生の人道の犠牲、亜細亜州の先覚者であることを誉め称えた。
その後山田純三郎先生が世を逝ると、国民党總栽 蒋介石先生は、彼の為めに記念碑に題して`永く風義を懷う´と云い、それによって彼の革命的道義を記念し、しかも末永く誌して忘れないようにした。
山田家一家は、その兄と弟と同じように苦難を共にしており、同じく忠義の模範となる。鳴呼、なんと賢いことであろう。
            中華民国陸軍一級上将 何応欽 敬撰並書

中華民国六十四年三月二十九日(1975年、昭和50年。`三月二十九日´は、旧暦。新暦では、4月27日)。黄花崗起義紀念日(1911念4月27日、明治44年4月27日、黄興が黄花崗で義兵を起こして、督署を攻めた紀念日)
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by Ttakarada | 2007-11-09 08:27  

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