老 朋 友 


◆桂太郎との会談
 
山田は自身の臨場体験を踏まえ、孫文と日本人の交流を語っている。
 このことは山田の甥、佐藤慎一郎が山田から直接聞いた事がらを「孫文をめぐる日中秘話」に著しているので参考としたい。

 臨時大総統を辞任した孫文は「全国鉄道計画全権」という名義で1913年2月10日、上海をたち日本に向かいました。随行者は戴天仇、馬君武ら5名の中国人と山田純三郎たちでした。14日の新橋駅では犬養毅らが出迎えています。とくに中国人留学生3000名の熱狂的な出迎えに駅周辺は身動きもならないほどでした。

 孫文一行は、帝国ホテルに宿泊、日本政府が孫文にやや好意を示したのは、後にも先にもこの時たった一回きりでした。
 孫文は今回日本を訪問した真意は、清朝を倒すことは成功したものの軍閥、袁世凱を倒さぬ限り革命は成功したといえず、何としても日本の援助を取り付けて袁世凱を打倒したいということにあったのです…

 2月15日、東亜同文会名義で後藤新平が孫文を歓迎しています。孫文はスモーキングルームで内閣を辞職したばかりの桂太郎と密談しています。同席したのは戴天仇、山田でした。
 戴天仇はその著「日本論」の中で『中国で排満革命が成功したとき、彼(桂)はわざわざ中山(孫文)先生のところに使者を送り親近の意を表している。中山先生の日本訪問に際しては、たまたま第三次内閣の総理であったが、彼は密かに孫文先生と二回にわたって会談している…』と密談の内容の一部を伝えています。

 ところが何故か、その密談の真相については伝えていないのです。
 その真相については同席した山田が次のように語っています。しかも私(佐藤)には何度となく語っています。それだけ両者が胸襟を開き、日中の招来を語り合ったことが分かります。
「自分は孫文先生、戴天仇と一緒にスモーキングルームで桂公(桂太郎)に会ったが、その時、桂公は日本の人口問題に就いて切り出している。『現在、日本の人口はどのぐらいと思われるか、あるいは年に何人づつ増えているかご存じか』とか問うている。
 
そして桂公が『この狭い日本では、今後20年後、50年後にはどうなるだろうか』と言ったとき、孫さんはそれに答えず、立ち上がってぐっと手を差し伸べて桂公と長い間、無言の握手を交わしていた。それが孫さんと桂公の初めての会談で、非常に劇的といってよい感動の場面であったことを、はっきり記憶している。
 
孫文の満州についての提案

第二回の会談には同行しなかったが、その時の話を後で戴さんに聞き、孫さんに確かめたところでは、孫さんは桂公にはっきりと提言したことは

『日本が将来、生きて行く道は満州でしょう。満州は日本の力で開発し、理想郷、模範国にしてもらいたい。しかし主権は侵させない。帽子だけは支那の帽子です。そして最終的には日本の国情が許すなら、日本と支那の両国は国境を撤廃してでも共に生きましょう。そして、一方ではロシア勢力の南下を押さえて白人の東亜侵略に備えようではありませんか』と日支百年の将来にわたる大経綸に関する提案をしている。

 それに対して桂公は「私がもう一度、天下をとったなら、孫さんとの約束を必ず実行に移そう」と堅い約束を交わしています。山田はこの話をするときに必ず「どうだ、孫さんの大きいこと」と言うのが口癖でした。

 孫文としては日本の援助によって、どうしても袁世凱を倒し、中国の統一を図りたい。その代わりに中国も日本の満州における特殊な地位を尊重しよう。そうすれば日本としても国防問題、人口問題など解決ができるのではないか。 c0142134_1352555.gif
 このような考え方をもっていたのだと、山田は明確に何度となく語っています。
 興中会の誓詞には「韃靼、韃虜を駆逐して中国を回復して合衆政府を創立する。もし二心を抱くことがあるかどうか、神よ、はっきりと御照覧あれ」と宣誓している。当時、孫文にとっては漢民族の回復を大前提として、万里の長城以北は我関せずの心境であった。

 その後の下田歌子や三井財閥の森格らとの援助を前提とした満州問題に一つの筋道をつける事として明記されるだろう。 c0142134_1358457.jpg
【石原莞爾】【張作霖】

 しかし孫文は臨時大総統就任の宣言文の中で初めて「…国家の本は人民にあり、漢、満、蒙、回、西、を合して一国を為す。漢満蒙回西を合して一人と為すが如し。これを民族の統一という」とこの時初めて満州の主権を主張したのです。この宣誓文が書かれたとき、孫文はハワイに滞在していてこれを知ったと山田は言っています。
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by Ttakarada | 2007-11-10 14:07  

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