満州と孫文


後藤新平に観た孫文の日本人観 

 山田純三郎の兄、良政は
「男子事を謀る。中道にして廃すべからず。まさに最後の一戦 を演じて止むべし」と語って慨然として職を投げ棄て福建省の彰州に向かっている。
 
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上海から弟、純三郎に宛てた手紙にあるように自らを鼓舞し、アジア復興のために中国革命に靖献した良政は、自らが革命の運命を導き、自らを一番理解する孫文のために命を賭けて行動すれば鬼人もこれを避け、必ず成功するという気概があった。

 しかし、怒声を発して人を威圧したり、他人を扇動したりする策もなく、沈着冷静にして人の心を真義に導くような人物であった。良政は自らの縁を革命の一助にできればと、伯父、菊地九郎の回顧から後藤新平に革命の助力を懇請することを思い立った。
 
当時、後藤は満鉄総裁を経て台湾総督府の民政長官をしていた。
 そのころ孫文は恵州で挙兵するため、各方面に援助を請いながら準備を進めていた。一方、フィリピンのアギナルド将軍は孫文と同様に明治維新に触発されていた。アギナルドとは武器援助などの面で協力関係にあったが、それでも革命に必要な武器が不足している孫文は、山田を通じて台湾からの武器援助を交渉させている。良政にとって後藤は一面識もない人物であった。
 
そこで佐藤の口述から記してみよう。
「九郎伯父さんが、明治5年に弘前で東奥義塾を創設したとき、まず行ったことは外人教師の招請だった。弘前は薩摩と同様に日本列島の南北の両藩は中央権力から遠ざけられていたが、日本の北端といっても昔は蝦夷、樺太から凍結を待って徒歩で大陸に渡り、ロシアと交易を行っていた。薩摩は南端にあっても、沖縄、ルソンを通じた南方交易で、アジアを影響下に置き始めた西洋列強と接触し、さまざまな文化交流に伴って起きる危機意識の覚醒を促していた。これに比して江戸幕府が行う鈍重ともいえる対外政策に疑問をもち、明治維新を促す動機を育んでいた。
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弘前城内 菊池九郎顕彰費

 津軽藩の弘前では幕末の漢学者、伊東梅軒の旧宅に今でも遺されている「松蔭室」で経国を論じた吉田寅次郎(松蔭)は津軽海峡に進出してきたロシア軍艦の視察に訪れている。このように阿片戦争から生じた香港割譲や江戸に到来したペリー艦隊の情報、そして北方を脅かすロシアの動向は、北端の津軽藩だからこそ収集できる情報として後の維新の混乱を回避できた一因でもあった。
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伊東梅軒の孫 伊東六十次郎氏

 九郎伯父さんは東北での奥羽列藩同盟の津軽藩の使者として庄内藩に赴いたんだが、津軽藩が直前に同盟を回避したことに義憤を生じ、戦闘同盟の違約を自らの身体で果たすべく庄内に参じたわけだ。そんな伯父さんの気質からすれば、薩軍の総大将だった西郷隆盛が庄内藩に与えたとてつもない度量に感動して、薩摩の「私学校」に向かわせたのは当然ともいえる行動だった。もともと熊本の菊地家の系図をくむ九郎伯父さんのこと、気概の同感というべきものだろう」


 ◆菊池九郎の人間教育
 
佐藤は幼少のころ一緒の蚊帳で寝起きした九郎の慈愛の心情を思い浮かべるように語りをすすめる。
「維新の混乱は、山背の風といわれる追木山(岩木山)の寒風にさらされた津軽平野をおそった凶作とともに、人心の疲弊まで巻き起こし、ややもすれば閉鎖的といわれた民情を、より暗いものにしていた。いつの時代でもそうだが、天を恨み、政治を批判する、まるで生きる目的さえ無くしたかのような状況の中で、伯父さんは「人間がおるじゃないか」と独り決然として人間教育の行動を起こしたのだ。

 手始めに明治5年、東奥義塾を創設して外人教師の招請を行った。伊東梅軒の儒学、北前船による北陸、京都の影響、そこから生ずる剛直さと、しなやかさの調和、そして米国人教師から得る最新の知識と情報、そして見逃してはならないキリスト教の影響だ。弘前には洋風建築物とともに、いたる所で当時としては珍しい西欧の最新文化があったんだ。

 当時、日本各地にみられたさまざまな拙速な影響ではない。津軽人が育んだ伝統文化と人間教育のための根本資質の涵養があった。
 津軽武士の残像が相まっての気骨が明治人の気概や器量として培われただけではない。南端の薩摩、四国の土佐、日本海側の萩、小浜、越後長岡と変革期の逸材の輩出とともに、津軽人の北端からの南下、あるいは海外飛躍への行動力として発揮されたのだ。外国人教師の招聘は語学力の目覚ましい向上を果たし、また教師の見識から学ぶ、海外においての人格価値の共有という自信が、よりその行動を促したといえる」


 ◆ユング教師の伝えたアメリカとリンゴ  

津軽を懐かしむ佐藤の言葉は"人間至る所、青山あり"といった地球上のどこにわが身を置いても時流に迎合せず自らを見失わず、しかも衆を頼まぬ「孤高の憂国」といったものを感じさせるものだ。
「ユングという教師がいた。ユングが語学授業の合間に語る米国の思想や民情は、生徒の感動を呼び起こし、ときに忠孝の話になると、一同、感涙し戦慄といった状態がしばしばあった。
 


りんごの原木c0142134_1948918.jpg

来日のときに大切にもってきた米国リンゴの苗木は、その後の津軽の殖産事業として立派に役立っている。その原木はわが家の前にある。余談だがそのリンゴの育成方法を教えてくれと長野から来たが、なかには小心者がいて『せっかく儲けられるものを教えられない]』と追い返してしまった。
 それを聞いた弘前の樹木というところに住んでいた外崎政義が烈火のごとく怒り、時には偏狭な津軽根性を戒めたのだ。リンゴで興き、リンゴで滅ぶ津軽魂だよ」
 
 郷里 津軽を慈しみ、ときとして津軽人を憂うる佐藤は、つねに弘前は日本の一部分、日本はアジアの一部分、アジアの安定は世界の平和だと語った。4人兄弟のうち2人は米国へ、良政と純三郎は孫文の革命に挺身している環境の中で、自分という"自らの社会の中の分(ぶん)"を自身の行動で探し、次の世へ遺す啓言でもある。

「そのユング先生が来日するので江戸(東京)へ迎えに行くことになった。当時、海路もあったが、奥さんが船酔いに弱いというので東北道を使うことになった。江戸まで25日余り。弘前を発って今の岩手県の水沢を過ぎたころ、一人の少年が九郎伯父さんに添って歩くようになった。事情を聞いてみると、学問のために須賀川まで行くという。道すがら学問の話、世界情勢、日本の進むべき道、そのためにどんな学問をしてどんな人間になるか、といった話だったが、歳は違えど"切れのよい呼応"での問答があった。その少年が後藤新平だ
 

◆後藤新平に採用された純三郎


 その後藤には純三郎も縁がある。大陸へ行って満鉄に入りたいと考えた折り、伯父九郎にその事情をはなして後藤に縁をつないでもらおうと思い面会にいったことについて後藤という人間についてこう言っている。
「後藤という人物は誰々の紹介などというとなおさら採用などしない。それより目的と意志と完遂する勇気を見せることだ」
 純三郎が面接に行くと九郎伯父さんが言った通りの人物だった。寡黙な良政とは異なり、応答辞令の長けた純三郎が面接採用後に伯父との関係を伝えると、後藤は生涯、師と仰いだ菊地九郎との回顧を懐かしみ、その甥純三郎との縁の感激に浸っていた。

 良政の後をうけ革命に挺身する純三郎は、自身の身分である満州鉄道株式会社の社員として業務履行の妨げになると上司に上申したところ
「満鉄の社員は何人いる。その中に満鉄のために働く者も大勢いる。国のために働く者もいるだろう。しかし、日支善隣友好のため、ひいてはアジアの安定のため行動しているのは何人いる。満鉄のことなど気にすることなく一生懸命やりなさい」

 純三郎はそのあと、給料が増額されたのに驚いた。後藤の器量が委ねた大きな希望の意味に背筋が凍りつくような感動を覚えたことは言うまでもない。孫文が日本人を語るとき、つねにその後藤を懐かしみ、後藤に真の日本人の姿を認めた心情が山田の口から語られる。

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津軽の冬
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by Ttakarada | 2007-11-11 19:56  

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