山田良政小伝




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《 アジアに生き、中国革命を吾がことの様に挺身した日本人》

中国民族から国父と尊崇されている孫文が、その自序伝の中で、
「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟、宮崎兄弟、菊池、萱野がある」と、はっきりと書き残している。
その山田兄弟とは、山田良政・純三郎兄弟のことであり、菊池とは菊池良一のことである。
しかもこの三人は、ともにこの弘前出身の人たちである。

良政は、1868年(明治元年)12月3日、百石取りの津軽藩士、山田浩蔵、きせの長男として弘前城下に誕生。良政は、東奥義塾卒業後、二~三の変遷を経た後、中国の上海に渡ったのは、1890年(明治23年)のことであった。
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良政は、その澄んだ瞳が示しているように、その心には一点の邪念もなく、寡黙せあまり物を言わない“静を為さずして静自ら生ず”といった物静かな人で、動かずして信じられ、言わずして信じられた。 しかも一諾千金に重みをもった、堂々たる風格の青年であった
1899年(明治32年)、良政が一時帰国して神田三崎町に居た時、孫文自らがその寓居へ良政を訪ねて来ている。 初対面であった。

西欧の独断的な制圧に遼弄され尽くしていた全アジアに於て、唯一人毅然として自ら起ち上がった日本民族の美事な英姿に感激して自ら起ち上がった人々がいる。
それは印度のポンセー、フィリピンのアギナルド、それに中国の孫文という人たちであった。
良政は、その孫文の祖国中国に寄せる愛国の情熱、アジア復興に対する崇高な理念、そしてその情熱の滲み出るような人柄に深い深い感銘を受けたようであった。 
良政は、その直後 敏子と結婚。 良政が中国革命に殉じて中国の土となったのは、その翌々年のことであった。

良政はその翌年1900年(明治33年)2月には南京同文書院の教授兼幹事として、 南京に赴任していた。
その8月、孫文が平山 周とともに良政を訪ねて来ている。 良政は、弟純三郎を連れて上海の旭館で孫文と会談している。 その時純三郎には会談の内容に就いては全然分からなかったが、後で孫文から聞いたところによると、孫文がいよいよ台湾の対岸の恵州で、清朝打倒の旗揚げをしたいという。 
それに対して良政は、
自分の叔父菊池九郎(弘前出身)と、台湾の民政長官後藤新平とは特別な関係がある。その後藤 に革命援助のことを頼んでみようという事を約束したのだという。

平山周 の記録によると
「予(中山)は、良政と向後の計を議す。 君(良政)いわく男児、事を謀る。 中道にして廃すべからず。 まさに最後の一齣(セキ) を演じてやむべし」 (良政は)概然として職をなげうって福建 章州に向う・・・・ と、あるように良政は南京同文書院の職を投げうって台湾に向かっている。 
結局、良政が孫文に引き合わせた後藤の計らいによって児玉源太郎台湾総督府長官は、
「武器の供給と将校数名を貸与してやるから、革命軍は台湾対岸の海豊、陸豊まで進撃して来るように」と、孫文と確約してくれた。

孫文は直ちにその旨を鄭士良に指令し、鄭は勇躍挙兵にふみ切ったのであった。
好事魔多し。 9月26日山県内閣は総辞職し、10月19日伊藤博文内閣に変わった。
新内閣は、革命軍に対する武器の援助と将校の支援を厳禁してしまった。 万事休す。
良政は同志数名をともに、孫文の解散命令を鄭士良軍に伝えるべく大陸へ潜行した。 結局革命軍は涙を飲んで解散。 良政は少数の同志とともに退散の途中、三多祝で洪兆麟の率いる清兵と出遇い激戦となり、良政は遂に捕らえられて斬に処されている。

孫文が1917年(大正6年)9月10日、大元師に就任、広東政府を樹立していた時のある宴席で、孫文は洪兆麟師団長に対して、同席していた良政の弟、純三郎に眼鏡をかけさして、
「君の殺した者の中に、こういう人相と似た者は、いなかったか」と尋ねた。
じっと純三郎の顔を見詰めていた洪兆麟は、
「貴君の兄さんを殺したのは、この私です。どうか存分にして下さい」と申しでたと純三郎は語っている。
なお 洪兆麟の語るところによると
「私が殺した人は、弁髪で、眼鏡をかけ、支那服にわら帯をしめた外国人で、メリヤスのシャツを 着ていた 」 当時メリヤスは、中国人は着用していない時代だったので外国人ということが分かった。
それで、「お前は外国人だろう」と、何回も聞き返したが、最後まで淡々として中国人だと答えて斬に処されたという。

時に良政は、三十三歳。  妻とし子は、結婚して3日間良政と居を共にしただけであった。
その後上海の良政から「そのうち迎えに行く。両親を頼む」という端書が来た。 敏子はその一枚の端書を唯一の頼りとしながら、永遠に帰らざる夫、良政を待ち続けていた。
良政は、たしかに非運に倒れている。 しかし良政自身はそれを最初から自らの使命観に徹する者であった。だからこそ一死万世に生き得る者であると言うことができるであろう。
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by Ttakarada | 2007-11-16 09:38  

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