秘録 孫文から犬養に宛てた手紙

大同」を求めて
(日本外交への啓示)

原文訳.佐藤慎一郎先生 63.4.21 寄稿 
構成 郷学研修会

孫文から犬養毅に宛てた手紙
(大正12年、この手紙は、山田純三郎が、犬養家へ持参したもの)

山田はこの原文写しを佐藤に託すときこう言っている
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『私が孫さんを訪ねて犬養さんが入閣したことを知らせた。亡命中には頭山さんや犬養さんに援けられ、その無条件な援助にみた日本人と一緒にアジアの共通な意志を成し、そして遂げるには、まず日本人が先頭に立って抑圧されたアジアの人民の代弁者になって欲しいということだ。

またその精神もった信頼する日本人が多くいることを知っていたし期待も懸けていた。これはシナ一国でなくアジアのために日本は絶好の機会を逃しているという痛切な意思を犬養さんに託したものだ。三日三晩寝ずに考え、慶玲(妻)さんが何度も書き直したものだ。孫さんが終生日本に期待を懸けていた心が痛いほど滲み出ている。

 革命は後になって評価は色々出てくるが、これが事実だ。それがあっての革命だ。なにも好き好ん赤露に向かったんではない。日本が余りにも理解無く、追いやったのだ。これは孫さんの意志、いやアジアの意志として日本が指導的立場にならなくては、日本そのものが危うくなるという憂慮を犬養さんに伝えているんだ・・・

この手紙を託されたとき、孫さんは日本および日本人にアジアの将来を託したんだ
「山田君!宜しく頼むよ」と、今までに無い強い口調だった』

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【本文】
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  木堂(犬養の号)先生、 山田君(訳注、山田純三郎)が来ての話では、先生がこの度入閣されたことは、私たちが達成することのできなかった願望を助成し、それによって東亜百年の問題を解決することに、非常に役立つことでしょうと、言っています。
これを聞いて、狂喜しました。

 早く書信をしたためて、色々と御相談申し上げたいと思っていたのでしたが、広東の軍事がまだ解決しないので、それを果すことが、できませんでした。
現在、曹錕が位を盗んだため、国を挙げて憤慨しており、西南では、すでにその罪状を宣言して討伐しており、四川、湖南、広東三省の軍隊および雲南、広西の同志各軍を大挙して北伐させ、同時に張作霖、段祺瑞、慮永祥と連絡して協力合作して国賊を破ろうとしています。
 
ただし、曹錕が敢えて天下の奇忌誹を犯してまで公然と位を奪っているのは、それより先に、強国があって、その後盾をしている者が居ればこそ、そのように、するようになったものであると思われます。
 
考えて見ますと、列強の伝統的政策としては、中国が治まって強くなることを厭わないため、しばしば革命に反対する挙に出ているのです。

この度のわれわれの行動も、列強のさまざまな阻害を受くることは、疑いの無いところでしょう。
 貴国の対支行動も、従来は専ら列強の鼻息を仰いで、中国及びアジア洲の各民
族を失望させていることは、非常な失策でありました。

この度先生が入閣されましたので、必ずや列強追随の政策をやめ、新な旗印を樹ててアジア洲の各民族が渇望している気持ちを慰めて頂けることだろうと思います。


訳注、以下の『』内の文章は、犬養さんに出した本文にはないが、 孫文が書いた原文には、有る文章である。参考のために訳しておく。

 『もし、そのようになるならば、日本はその増加する人口を容れる拓殖の地が無いということなどは、心配する必要などないでしょう。

 私は、南洋の島々および南アジアの各国では、必ずや日本をその救い主として歓迎するようになるだろう事を知っています。ネパールとブータンニ国が英国の統治を受けること、百有余年になりますが、依然として中国に対して、藩と称して貢物を送っている事を御覧下さい。これは民族の同じ人情というものは、政治的な勢力よりも強いものだという事を意味しているのです』

 もし日本がアジア民族を扶けることを志として、武力的な欧洲帝国主義の動きに追随することを止めるならば、アジア民族は、日本を敬慕し、崇敬しないということは、ないでしょう。

 欧洲大戦以来(19 14~18)、世界の大勢は、すでにその為めに一変しました。
強盛な英国、カナダの如きは、戦勝の餘威をもってしても、なお譲歩してアイルランドの自由を許し、エジプトの独立を許し、印度の開放を容れざるを得ませんでした。

その理由とは、何でしょう。それはつまり、欧洲大戦後に一種の新しい世界的勢力が発生したからです。この勢力は何であるかと言えば、それは虐げられた一部の人類が、みな大いに目醒め、方々で起ち上って強権に対して抵抗していることを言うのです。

 このような人類は、アジアに一番多いのです。したがって、アジア民族もまたこの世界の潮流を感知して、必ず起ち上って、欧洲の強権に抵抗することでしょう。今日のトルコは、その先導である。ペルシャ、アフガニスタンは、その後継者であり、更にそれに続くものは、印度、マラヤでしょう。

 このほか更に最も大きく、最も重要で、列強の競争に関すること最も撒しいのは、支那四億の人々です。だから、列強の中には、その初めには、之を独占しようとした者が有ったのでしたが、他の強国に阻まれて、ついには支那分割を謀る者が現われるようになったのです。図らずも、たまたま日本が東亜の海の果てで起ち上ったため、その分割の謀も遂行することが、できませんでした。

 この時には、支那四億の人々とアジア各民族は、日本をアジアの救い主であると見なさない者は、無かったのです。c0142134_22273966.jpg

 思いがけなくも、日本には遠大な志と高尚な政策がなく、ただ武力的な欧洲の侵掠的手段を知るだけで、遂には朝鮮を併呑する挙に出て、アジア全域の人心を失うようになったのは、誠に惜しむべきことであります。

 古人は「その心を得る者は、その民を得、その民を得る者は、その国を得る」
と言っています。

もし日本がロシアに戦勝した後、よくこの古人の言葉を教訓としていたならば、今日のアジア各国は、みな日本を頼りとしたはずです。英国は今日、アイルランドに自由を許し、エジプトに独立を許しているのは、つまり、そのような意味があるのです。

 もし日本が翻然として悟り、英国がアイルランドを遇したように、朝鮮を遇して、その失敗を補う方策をとったならば、アジアの人心は、なお収拾することができるでしょうが、さもなければ、アジアの人心は、必らずや、みな赤露に向って行くことでしょう。これは断じて、日本の幸福ではありません。
 
あの赤露というのは、欧洲の虐げられている人民の救い主であり、しかも強権者にとっての大敵であります。それで列強の政府は出兵してロシアを攻撃しているのですが、各国の人民はその政府に反攻しているのです。それで英仏米などの国々は、みな、その人民の内こう(言へんに工)のために、ロシア討伐の兵を撤収せざるをえなくなったのです。

 今日アジアの人民が圧制を受けていることは、欧洲の人民に比べて、もっと酷いのです。
それでその救いを望んでいることもまた、一層切実なのです。アジアには弱い者を救い、傾いている者を扶けようと、義によって言論を主張する国はないのです。
だからして、赤露に望みをかけざるを得ないのです。

 ペルシャ、トルコ(注、原稿では、アフガニスタンとなっているが、犬養宛には、トルコとなっている)は、すでにその望みを達成しました。支那、印度も、これに頼ろうとしています。
 
私は、日本がよくよく考えて、之に善処し、幸いにも重ね重ねの誤りを繰り返さぬよう深く望むものであります。

 そもそも欧洲戦争の初めにあたって、日本は小さい信義を盲信して、遠大な計画には暗く、遂に一躍して世界の盟主となる機会を失い、世界に再び戦争をする禍根を残しました。日本の志士たちの中には、今に至って回顧して、なお痛恨嘆息している者がおるのです。

 先生は、或はまだ霊南坂での半日の談話を思い起して頂けることでしょう。
先生は、昔、その志を行うことができないというので、大隈内閣に入閣することを拒まれました。 ところが今回、先生はついに入閣されました。それは多分、その志を行うことができると思われたからでしょう。だから先生のために長々と、お話申し上げ、深くつっこんでお話申し上げることを禁じえなかったのです。

 そもそも将来の世界戦争は、言う者の多くは、必ず黄色人種と白色人種との戦争であるとか、あるいは欧洲とアジアとの戦争であるとか言っていますが、私は敢えて、それは違う。それは必ず公理(訳注、多数の人々に公認される正しい道理)と強権との戦争であろうと断ずるものです。
 
しかも強権を排斥するものは、もとよりアジアの虐げられている人民が多いのですが、欧洲の虐げられている人民もまた少くはないのです。だから虐げられている人民は、まさに虐げられている人民と連合して、横暴な者を排除すべきです。 

ところで欧洲ではソ連だけが虐げられている者の中堅であり、英仏は横暴者の主流ですが、アジアでは、インド、中国が虐げられている者の中堅です。そして横暴者の主流も同じく英仏です。米国は横暴者の同盟か、あるいは中立ですが、被抑圧者の友人でないことだけは、断言できます。

(訳注、犬養に出す前の孫文の草稿では、次のようになっている。
『このようにすると欧洲に於ては、ロシア、ドイツが虐げられている者の中堅であり、英仏及び米国は、或は横暴者の主流ということになりましょう。アジアに於ては、印度、支那が虐げられている者の中堅で、横暴者の主流はまた同じく英仏及び米国であり、或は横暴者の同盟者となるか、或は中立の立場をとって、必ずしも虐げられている者の友人とはならないことは、断言することができます。』)

 ただ日本は、まだ未知数の立場にあり、虐げられている者の友となるか、それとも虐げられている者の敵となるかは、私は先生の志が山本内閣に於て行うことができるか否かによって、定まることと思います。

 もし先生が、その志を行うことが、できるならば、日本は必ず被抑圧者の友となることでしょう。もしそうなれば将来の世界の大戦争に対して、準備しなければなりません。では、準備の道は如何ということを、先生のために、之を述べさせて頂きます。

《 その一》、

日本政府は、この際、毅然決然として、支那革命の成功を助けて、対内的には統一できるようにし、対外的には独立することができるようにし、一挙にして列強の束縛を打破させるべきです。これによってこそ、日支親善は期待すべく、東亜の平和は永く保てるのです。
 さもなければ列強は、必ずや色々の手段を施して、支那を以て日本を制し、必ず日支親善は永久に期待することが、できないようにさせ、しかしかも日本経済は、必ずや再び発展することが難しくなることでしょう。

 欧洲列強は、大戦以来すでにその帝国主義を東亜に推行する実力はなくなりました。然しながらその経済基盤が支那にあるものは、すでに非常に強固なものとなっています。それでその最も心配なことは、吾が党の革命の成功は、彼らに不利をもたらすことを恐れていることです。
 
列強の深謀遠慮は実に日本を目標にしており(注、原稿、つまり、犬養に出す
前の孫文の草稿では、『列強の深謀遠慮は、まことに日本よりも上手であります』
となっている)、だから常に色々な名目を作り出して、日本が彼らと一致した行動をとって、支那に対せざるを得ないように、させているのです。

日本の支那における関係は、その利害は、まさしく列強とは相反していることを知らないのです。
凡そ対支政策で列強に有利なものは、必ず日本に害があるのです。

ところが、日本が事ごとに、みな列強の主張に従わざるを得ないのは、当初は、孤立していて、しかも力が敵対することができないので、いささかも敢て頭角をあらわして、列強と対抗して譲らないという態度は、とれなかったのですが、それが習慣となって、あたかも当り前の事だと思うようになったのです。

 今や時が移り、情勢がかわったのに、なお計画を変えることを知らないばかりか、一層酷くなっており、事ごとに列強の相棒をかついでおります。支那の志士たちが、日本を痛恨すること、列強に対するよりも、ひどいのは、そうゆう理由なのです。

 今回幸いにして先生が入閣なされました。必ずや日本の過去の失策と列強に盲従する主張を一掃し、之を清算されるに違いありませんが、その最も重要なことは、支那の革命事業に対することです。支那の革命は、欧洲列強の最も嫌うところです。

思うに支那革命が一旦成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータンなどの国々、インド、アフガニスタン、アラブ、マラヤなどの民族が必ず中国の後に続き、欧洲を離れて独立するからです

(訳注、孫文の草稿では『思うに支那革命が一旦成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータン等の諸国は必ずや、もとのように中国の藩屏として附属することを願うことでしょう。しかも印度、アフガニスタン、アラブ、マラヤなどの諸民族は、必ず支那の後塵を歩み、欧洲を離れて独立するようになるでしょう』)

 このようなことになると、欧洲の帝国主義と経済侵略は、必ず失敗するように、なるでしょう。だから支那革命は、実に欧洲帝国主義にとっては、死刑宣告の前ぶれであります。したがって列強政府が、支那革命に反対するのに、あらゆる方法を用いる所以のものは、ここに在るのです。

 ところが日本政府は、この事を察することなく、之に引きづられて、反対しているのは、自殺と何ら異なるところがないのです。
 もともと日本の明治維新は、実に支那革命の前因であり、支那革命は実に日本の明治維新の後果であり、この二者は、もともと一貫したものなのです。それによって東亜の復興を図ったならば、その利害は相同しことなのです。その密接なことは、もともと、そのような状態にあるのです。

 日本はどうして、中国革命に対して、欧洲の武力主義をとり、わが国を嫌い、わが国を害するのでしょう。
(訳注、孫文の草稿では、『日本は、どうして、欧洲に追随し、わが国を嫌い、わが国を害するのでしょう』)

日本の国家万年、有道の長期の基本計画のために、もし支那に革命の発生がなかったならば、日本は提唱して、これを誘導すべきであることは、ロシアが今日ペルシャ、印度に対しているようなものです。
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先生が昔、宮崎(泗天)に命じて、わが党と連絡させたものと、まさにそれでありましょう。支那革命がすでに発動したのですから、日本はその全国の力を傾けて之を助成し、それによって支那を救い、自らをも救うべきことなのです。それはあだかも、百年前、英国がスペイン(訳注、孫文の草稿ではイスパニアとなっている)を助け、また近くは米国がパナマを助けたようなものです。 それなのに、日本政府は、支那革命に対してこの十二年来、すべて反対行動に出で、反対が失敗すれば、中立を守っているのだと偽装して自らを飾りたてています。

 従来、徹底的に白覚して、毅然決然として、支那革命を助け、日本を東亜に立国するものとして雄図を計ったことは、未だかってあったことはありません。これはすべて先生が従来政府に志を得なかったからのことでした。

いま先生は、自ら政府の一員となりました。私は切望、深望せざるを得ないのです。これは独り支那のための計略なのではなくして、日本のための計略でもあるのです。

 
《その二》

日本は真先にロシア政府を承認し、ただちに之を実行すべきです。絶対に、列強と一戦した歩調をとっては、いけません。
 列強が、ロシア政府を承認しないのは、利害が衝突しているからです。フランスは、国債の償還がないから、ロシア政府が、これを負担して、返済すれば、承認すると要求しています。英国は、インド問題が解決されないので、必ずロシア政府に、その領土を保証させようとしているのです。それは、あたかも最後の日英同盟のようなもので、そのあとで、之を承認しようとしているのです。米国も債権関係、つまりフランスの債権の多くは米国に転嫁されています。ロシアは、国債負担を廃除しています。米国も大いに損失を受けているのです。それで、英仏と一致した行動をとっているのです。

 顧みれば、日本はどうでしょう。このような状態なのに、なおも競って列強と一致した歩調をとるのは、その愚かさには、まことに、どうにもならぬものがあります。
 欧洲の諸々の小国は、どうでしょうロシアと関係のないものは、やはり、英仏と行動を同じくするものはあるが、ロシアと関係のあるものは、ことごとく、まずロシアを承認しています。

しかも日本とロシアとは、固より最大の関係があるのです。初めは誤って列強と一致した行動をとって、出兵しましたが、後には、自覚して単独でロシア代表と数回の会議を開いたのでしたが、思いがけなくも、承認問題では、なおも各国と同一行動をとり、感情的には融和することができなくなり、ついには色々な話し合いのさまたげとなり、満足な結果を得ることができなかったのは、まことに惜しいことでした。

 日本とロシアは、すでに密切な隣国関係があるのだし、そしてまた列強のように、権利の損失はないのです。ところが対露外交がなお敢えて列強の範囲を抜け切れないのは、これは欧洲の一小国と比べてみても、及ばないのです。

 どうして日本には人物がおらずして、このような状態にまで、たち至ったのでしょう。

 或は、日本の立国の根本は、ソビエト主義とは同じでない。だから敢えて承認することは、できないのだと言いますが、これは真に見識の狭い議論です。そもそもソビエト主義なるものは、つまり孔子のいわゆる「大同」なのです。

 孔子は
 「大いなる道が行われていた頃には、天下を公となし、私するようなことは、なかった。

賢い者を選び、有能な人を用い、人々は互いに信じあい、親しみあっていた。

自分の親だけを親としたり、自分の子だけを子として区別するようなことは、なかった。

老人は安らかに生涯を終えることができ、若者には十分活動する場所があった。幼い者はすくすくと成長することができたし、老いて妻なく、また夫のない者も、幼い時から父がなかったり、年老いて子のない者も、不具廃疾の者も、みなそれぞれに生活していくことができた。
 
男には、分に応じた職業はあるし、女にはいずれも配偶者があった。財貨は地に棄てられて粗末にするようなことはしないが、必ずしも自分のためにだけ力を用いるような事もなかった。力を十分に出せないことは申訳ないが、必ずしも自分のためだけ力を用いるような事もなかった。

 したがって、策謀する必要もなければ、泥棒や乱賊などの横行する余地もなかった。だからして表通りの戸閉りをしておく必要とてなかった。このような社会を大同という。」
 と言っています。

 ロシア立国の主義は、これほどのものでしかないのです。なんで怖るべきことが、ありましょう。まして日本は孔子を尊んでいる国です。これに対して、まず歓迎の意を表して、列国を導いてやってこそ、始めて東方文明国たる資格を失わないのです。もし列強が承認してから、その後で日本が始めて之に追随して承認しなくては、ならぬようになったならば、親善の良機はすでに失われてしまうことになるでしょう。これはいわゆる

  「渕の為めに魚を駆いやり、草むらの中に雀を追いやる」(訳注、孟子の言葉)
 ようなものです。

 日本を排斥しようとする強国が、ロシアをそのさきがけとして利用することになれば、独り日本が危いだけでなく、東亜もまた、それにつれて平和な日が無いようになるでしょう。そうなれば、公理と強権との戦いは、もしかしたら、ついには日本では、黄色人種と白色人種との戦争と変化するように、なるかも知れないのです。

 是非とも知っておかなくては、ならないことは、欧洲大戦後は世界の大勢は一変したばかりでなしに、人心の思想もまたその為めに一変したのです。日本の外交方針も必らずこれに順応して改変してこそ、はじめて世界に於ける地位をよく保存することができるでしょう。さもなければ、必ずドイツの仕損じたことを、また踏むことになるでしょう。

 試みにごらん下さい。ホノルルの軍事配置、シンガポールの設備を。これらは、誰を目標としているのでしょうか。
 事態はすでに此処まで来ているのです。日本がなおもロシアを興国としないならば、ゆくゆくは必ず水陸両面の央撃を受けるだけでしょう。英米の海軍は、すでに日本より強いこと数倍です。しかもロシアの陸軍は今日に於いては、実に天下に冠たりということを、知らないわけには、いかないのです。

 孤立している日本が、海陸の強い隣国に当ったとして、どうしてよく僥幸を期待することが、できるでしょうか。だから親露は、日本自存の一つの道なのです。

 以上二つの策は、実に日本が国威を発揚し、世界を左右する遠大な計画であリ、興廃存亡のかかわるところなのです。これは日本が欧洲大戦の初め、すでにその赴く所を誤り、世界の盟主となる良機を失ったのです。一度誤っているのに、何うして二度も誤ることが許されるでしょうか。

 ただ先生が詳細にお考え下さってヽ速やかに対処されるようお願い申しあげるのみ
です。                                
         
民国十二年十一月十六日   広州にて
          (訳注、大正十二年)




武力を背景にした当時の日本と、財貨を背景にした現在の日本。東洋の一員として、世界の強国として日本の経国に重大なる警鐘を鳴らしているかのような孫文の一声は、私達、次代を継ぐ者に、゛人物とは゛゛国とは゛゛外交とは゛を痛切に啓示するものです。(筆者考)
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# by Ttakarada | 2008-02-05 22:32  

あとがき

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「研究、分析は学者に聞け。作り話は小説家に任せ、今、残すべきことは関係者の体験をたずねて可能な限り継承することだ。しかも孫文にかかわった日本人は少なくなっている。皆、年をとったため体験した年月は明確ではないかも知れない。しかし、年寄りの思い出話というものは功利的な世の中では真剣に聞く人もなければ、感動と感激を得る根本価値も今はない」


「神棚の御本尊ではないが普段は必要のないものだが、せいぜい正月か、困ったときのお願い事のようなもので、普段はほこりだらけ。だが請われればいつでもいやな顔をせずに舞い降りてくるものだ。年寄りの思い出話とはそのようなものだが、尋ねるものがいる限り口舌の乾くことも忘れて話し続ける楽しみもある」
 

筆者の周辺にはこんな先輩が大勢いる。
 20代に縁があって満州関係のご老人の会に招かれた。皆さん60代後半から80代の矍鑠(かくしゃく)たる個性ある30名ほどの方の集まりだった。戦後教育では教えられることのなかったような、さまざまな体験が披露された。
 通称高級軍人、高級官僚、満州鉄道関係者、あるいは開拓民として移住した方々が激論を戦わす。そんな中で戦後生まれは筆者一人である。ところが言い争っているような妙な雰囲気があるのに気が付いた。

 たしかに植民地官僚と敗軍の将。それら組織とつねに軋轢を起こしていた満鉄関係者や民間人ならば当然ことのようだが、とにかく元気がいい。満州はおろか日中近代史の裏面にも話題が及び、平成の御代に歴史の謎とさえいわれていることが当事者の口から弾むように飛び出す。

 筆者自身、生まれる以前の歴史の臨場感をいやおうなしに味わわされた。そして若年ではあるが、過世代の存在と意義をおぼろげながら感じたものです。
 会の名称は「笠木会」といって、満州建国の精神的支柱だった笠木良明を偲ぶ会ではあるが、満州では対立関係でもあったさまざまな方の呉越同舟の趣があった。世間では戦後政界の黒幕、代議士、一流企業人、大学教授、歴史研究家など、当時日本を動かしている満州人脈というべき顔触れである。

 言い争っているさなかに一息入れるつもりなのか、はたまた「おまえはどう考えるか」などと話を振られることがある。筆者にとっては偉いも偉くもない。いわんや満州などという言葉は知っているが細目は知らず。ただ世間でいうところの大ボス、小ボスとは違うことは理解できる。
 笠木の遺影の前で、当時と同じ激論を戦わしている弟子の集まりである。一般社会とは違って、普段、言葉に出したい意見があっても"唇寒い"などと遠慮することもなく、根本さえ外さなければ何でも通ってしまう。その根本は地位、名誉、財力、学歴といったことに「卑しさ」を持たないことであることは同感であるし、「公」と「私」のわきまえさえ明確なら「長幼の序」は後回しになるようなおもいがある。

 何を発言したのかは思い出せないが、毎回お鉢が回ってくる。すると激論がなかったかのように老教授が
「われわれはこの若い世代に何を遺すのか。一番よい方法は年寄りは早く死ぬことである」
 一瞬、場が白けるが、笑う人、うなづく人、「そのとおり」と声を上げる人、さまざまではあるが怒る人、嘲笑する人は一人もいない。
 平均年齢を下げていると冗談を言っている筆者だが、議論や受容の柔軟さは筆者も舌を巻いた。

 笠木良明のエピソードの中でこんな話があった。大川周明、北一輝らのある会に呼ばれたとき黙って聞いていた笠木は
 「おれはポチではない」といって席を蹴った。
 ポチとは愛玩犬のことであり、あまり吠えないおとなしい犬のことである。
 また、滝に打たれ修行することを例えて
 「滝に打たれて人間ができるなら、始終、滝壺に打たれている鯉のほうがもっと立派だ」

 そんな笠木を懐かしむ人々の集まりであるが、いやおうなしに満州や大陸、そこに住む民族や歴史、日本とのかかわりが老先輩の雰囲気と相まって興味をそそられたわけです。縁は自らが望んで得られるものもあるが、いつのまにかその世界に入り込み感動や感激をとおして自分の役割を自覚し、なにがしかの成果を得て悦に入ったり、あるいは挫折して縁を恨んだりすることもある。
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 またそれを総括して"縁は不思議なもの"とか"運命"や、はたまた"宿命"などと思い込んで己の人生を限定したり、あきらめたりすることが多いようだ。そのようなとき明治の先輩は筆者にこう言い切った。
「縁は己の宿命に訪れるものではない。宿命を自他の尊厳の中に見いだすとき感謝になり、その命に報いるということが分かれば本当に"宿った命"を知ることになる。
しかしそれから先は自身のためにも、あるいは自身の存在を社会の中で明らかにするとして利他に役立つ存在となるように心掛ける"立命"になる。利己的な欲望に埋没していると宿命や自己そのものに怨嗟の気持ちが起きるものだ。まさに自己の崩壊や確立の前提は、"自分は何物か"ということの追求の単なる結果に過ぎないものだ」


 また文章についてもこう述べている。
 「うまい、へた、ということは技術の問題だ。分かりやすいということはその人に合っているということだ。継承すべき人間の事象を著すには流行(はやり)に迎合するものであってはならない。いつの世でも感激感動を通じて触発され、君と同様な志操をもって至誠の循環は訪れる。人間を学び歴史に思いをいたすとき、そのことは将来の確信として心に宿るものだ。俗世の評価や人格となんら関係のない付属性価値の評価を恐れてはいけない。ただ君の至誠に恥じることがなければ世界は動くはずだ」

 初対面の老人であった。茶菓子を口元に運ぶしぐさが妙にゆっくりと感じられる。お互いに年はいくつなのか、何をしているのか分からないまま長時間を費やしていた。明治に共通していることだが、玄関先から道路の角まで見送る優しさは、一期一会になるかもしれない自己への緊張と厳しい生きざまの姿がある。

 道すがら同行した老人に「あの方は…」と尋ねると、「安岡先生だ」。
 続けてこう述べた。
 「今日の印象そのままでいい。あとはおいおい分かる。ただ歳は君のほうが若い。しかし頭はかなわんよ。ワハハ」  こんなことを試されたことがある。数寄屋橋街頭で演説している赤尾敏氏の意見を伺うために大塚の道場を訪問した折り、不遜にも長時間にわたり抗論したことがある。
「演説の最後に天皇陛下万歳を三唱しますが…」

「別に天皇個人の健康や個人的もろもろのことを願っているのではない。日本万歳、日の丸万歳と唱えてもいいのだが、ともかく日本の象徴であり、その意味で日本全体の安寧を願って"天皇陛下万歳"と唱えている」

「ロッキード事件のときにアメリカに行ったそうですが」

「総理といえば一応、政治上の代表者だ。それが車のケツとケツをつけて金の受け渡しなど日本人として恥ずかしいことだ。そこで市川房枝と一緒にアメリカにいった。アメリカではアパッチとババアが来たと話題になった」
>「安岡先生とは…」
 一瞬真剣な顔をして筆者を凝視した。
「安岡か。あれは行動力が無い。考えてもみなさい。日蓮、マホメット、キリストは命を懸けて時の権力に諌言したんだ。日蓮は火あぶり。キリストは、はりつけだ。いまの日本ではそんなことはないがだれも言い切らん。安岡も同様だ」

「安岡先生は、暴力は一過性だ。だから自分は長い目で見た国家の岐路に役立つ人材の育成に、生涯を懸けるのだとおっしゃっていますが」

「ことは勇気の問題だ。君は分かっているのか」

「確かにその辺の陣笠代議士や商売人が"安岡先生の謦咳に接した"とまるでマスコットが説いた言辞を、意味も分からずチャツカリ寸借しているものや、ひどいのになると安岡ブランドで飯を食べているものもいる。たしかに弟子と称しているものの中には固陋な考えをもつものもいる、地位や名誉に卑しいものもいるが自分は違う。先生の説いたものをいかに活用するのも人間の問題です。」  

どれくらい抗弁しただろうか。安岡家に連れていってくれた老人に促されて訪問した赤尾氏の道場だが、その老人は黙ってその様子を眺めている。
 老人がいうには
「赤尾氏は真っ赤な顔をして乗り出し、君は真っ青な顔をして引かない。まるで浮世離れした鬼ごっこのようだった」

 突然、赤尾氏は好々爺のように顔を崩して、
「分かった。君も若い。君の思う通りに進んでみたらいい」
 好々爺赤尾はもう一つの明治をおもしろい話として伝えた。
「このあいだ細川隆元が"赤尾先生、先生が亡くなったら数寄屋橋に銅像が建ちますよ"言論貴族のあいつらしいひやかしだが、こう返しておいた。"死んだら銅像などといわずに、君の出ている番組で赤尾の言い分を正しく伝えたらどうだ"と言ったら黙っていた。いちど市川房江とテレビで話してみたら皆、びっくりするだろう」

 一般には赤尾氏自身がいうとおり容姿は怖い、言論は辛辣な赤尾氏だが、四十数年数寄屋橋の同じ場所で唱える弁舌は一服の清風として聞き取れるようになったのはそれからのことである。
安岡先生の没後、自宅に伺ったおり奥様から
「よく笹川(良一)さんがジョギング途中立ち寄ってメロンを食べていきました。それと赤尾敏さんもよくいらっしゃっていました」  

何もいうことはなし。いまさらなにをいいたくても冥土に招かれるまでの辛抱だ。筆者を言論によって、これでもかと追い込んで試そうとする明治気質の真剣さは、明治の日本人を追い求めるものにさわやかな教訓として優しく示してくれる。明治には自分たちが失った何かがある。
"今のうちに明治に会ってみなさい、雰囲気でもよい、触れてみなさい"と、人に会うたびに勧めるようになったのもこのころからである。
 

日本はアジアの一部分  アジアは世界の一部分


今どき、職分が異なる近代日中史に興味を持ち、しかも明治人の活躍した歴史や人物に添って日本人を知ろうとすることなど、今までの筆者の世界からすればまさに"病気"そのものである。なかには仕事でもなければ、金にもならないことを費やしているなどと身近な言葉に躊躇することもあるが、いつか役に立つことがあるだろうと人生の刻を積んでいる。

 そのなかでも中国人、しかも庶民の立場から見た歴史をたどると、筆者なりに孫文と日本に行き着くのである。老先輩の話に興味を引かれると台湾へ飛んで西安事変の生き証人を尋ね、老婦人には妻の見た革命や夫の人柄を伺い、「先生(夫のことをこう呼ぶ)は自分を捜し続けて一生忙しく動いていました」と、自ら語りだした。
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 青年が民主化を唱え、「官倒」を掲げて天安門を占拠したと知れば言葉を解さないことも忘れ戒厳令下に身を置いたこともあった。英国植民地、香港の事業にも試行した。

 辛亥革命に挺身した日本人がいると教えられれば、出生地の育んだ環境に身を浸して歴史に思いをはせる。山田兄弟の生地である青森県弘前市も恒例になっている。
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歴史の必然を逆賭する 

植民地の解放、香港返還、アジアの復興、そして再度の人為的金融危機によるアジアの衰退。どうするか、どうなるかと、混迷しているアジアの人心は経済繁栄によって錯覚した功利主義に、自らの手によって陥れた結果である。

 近代アジアにおいてはつねに西洋の影響力の下、基盤のもろい繁栄と平和をコントロールされてきた。ときおりパートナーを替える国もあるが、つねに背景の意向をおもんぱかるために民生の安定や政権の信頼さえ得られないことがあった。それはアジア人らしくもあるがアジアの姿の崩壊のようにもみえる。
 
歴史を唯一の教訓とするならば、孫文の唱えた西洋覇道と東洋王道を問い直すまでもなく、地域、伝統、あるいは大局的にも世界的位置を再考する機会が、振り返ればそこにあるということを教えてくれる。つまりアジアのパートナーはつねにアジアを念頭に置かなければならないと教えてくれる。
 
現状からみれば、その機会をとらえ、メッセージとして発言できるのは大国の趣を増した中国であり、悠久の歴史を刻む民族の知恵であろう。加えて、それを補うのは台湾であり日本であり、世界の中でのアジアの存在意義を自覚した民衆でもあろう。

 天安門広場に集まる若者の背景に孫文がいた。台湾(中華民国)もしかり、政体を違えた両国の国父は孫文であり政権政党にも侵すことのできない偉大な存在であり、ときには苦慮する民衆の秘奥の光明でもある。

 異民族ではあるが、我が国もアジアの熱狂と衰退の予兆を、孫文の志操から透視する人々が存在する。それは、真の日本人の姿を普遍なアジアの眼で認めた孫文が、命懸けで革命に挺身した志と遺訓が、いまでも日本の各地に息づいていることも事実である。

 アジア人がアジアを知り、全アジアを視野にいれた安寧を願うとき、先人の遺したアジア人としての矜持を顧みて懐かしく思うことだろう。そんなとき片隅の継承ではあるが、孫文が唱え、希求したアジアの「大同」が、各国固有の民衆が、共通のアジア民族として再興するであろうことを、おせっかいながら筆者の推究と目標の意として記したものです。
 

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# by Ttakarada | 2007-11-24 10:06  

革命余話


 孫文は革命のさなか、日本滞在を懐かしむように四季がおりなす風情と、それに感応する日本人の人情について山田と語らっている。
 潜伏先の海妻邸から眺める頭山邸の桜や、車窓から見た富士山、山々のみどりや渓流のせせらぎや澄み切った清流が、確信はしているが時折気弱にもなる亡命生活を余儀なくされていた孫文にとって、日本朝野の有志の純情とあいまって忘れることができない情景でもあった。
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 亡命も含め、革命遅滞の遠因ともなった一部の功利的日本人や、終始孫文を侮り続けた日本政府の姿ではあるが、アジア諸民族から光明とおもわれたあのときの真の日本人への回顧と、その精神を培った四季の風情に思いをおこし山田に再三語りかけている。
         
 山田兄弟の育った津軽の環境や、年老いた両親のこと、良政の妻敏子の生活についても孫文は尋ねている。兄を亡くした純三郎の心情を思いはかった孫文らしい優しさではあるが、自分と同様なおもいで日本を憂慮し、それでも日本および日本人に賭けたアジアの将来計画が捨て切れなかった山田との共感する吐息でもあった。
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 山田は郷里弘前の雪と桜を話題によく話している。 とくに岩木山から眺める県境の山々、弘前城の桜の宴、友と明かしたねぷた祭りのことなど、孫文は満開の桜の宴から眺める岩木山の冠雪は津軽の誇る絶景だということを知っている。

 革命成就の暁には、城内や山田家の菩提寺貞昌寺の桜の巨木に包まれ、兄良政を懐かしんでの酒宴を思いを馳せた孫文と純三郎であった。弘前訪問は叶わぬ旅ではあったが孫文は山田の父、浩蔵翁に「若我父」(我が父の若し)との心情を込めて呈上している。浩蔵翁はつねにその額の下で毅然と端座していた。

 アジアの憂慮と隣国の危機を我がことのように挺身した精神は、陸羯南が喝破した名山の純白な雪と桜花に育まれた弘前で培われアジアに開花した。
 そして、あの毛沢東、蒋介石会談の直前挫折の際に佐藤に言を含めた
 
「孫さんは、革命は九十九回失敗しても最後に成功すればいいと言っている。民族の融和とアジアの将来を賭けた大事業は、いずれ志を継いだ人間の意志に任せるしかない。そのうち孫さんのように国家民族に囚われないアジアの大経綸を唱える人間が現れるはずだ。慎ちゃん(佐藤)それは日本人かもしれない。いや明治維新を成し遂げたとき西欧列強の価値観に蹂躙されていた全アジア民族の光明であったあの日本人の姿が 再度、よみがえるならその資格はある。孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジア民族のために協力するならアジア民族はこぞって歓迎する。慎ちゃん僕はもう年だ。世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」

 佐藤は伯父山田の意志と孫文が「その志、東方に嗣ぐものあらんことを」と良政の頌徳碑(左=孫文直筆の頌徳文)に結んだ言葉を、今、アジアに歓迎される日本人像として継ごうとしている。孫文の意志が継承され、日本と支那が提携しアジア民族の安寧と世界の平和を希求したとき、覇道を抱く勢力ですら妨害を許さない地域民族の連帯が興っただろう。

 いや、アジア全体がその革命意志を保全の心として侵入を許さないだろう。
 佐藤は今でも思い描いていることがある。それは桜の下、再来孫文を囲んで若者達とアジアの将来を語り合うような桜花舞うアジアの春の招来である。

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# by Ttakarada | 2007-11-23 09:25  

干天の慈雨


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世の中を見つめて自分が適応しないことを苦悩するより、自分の独自の意志である秘奥の精神に自身の行動を革命を通じて問いつづけ、ついには民族の潤いとしてその意志を貫徹した孫文は支那人にとってどのように映ったのだろうか。また、どのように息づいているのだろうか。

 政治権力に在る者は"汚れなき看板"として民衆の共通の顔を孫文に求めるだろう。民衆はその意図を計りながらも心中の“あこがれ”として存在している。

 それは、ときとして意図は違いながらも、共通の存在として浮上するときがある。まさに共通の地域的宿命が孫文を必要としたときがそれだ。

 政治権力が衰退したときにおきる民衆不安定の鎮まりとして、あるいは国父と掲げる政体の違う力が融和を試みるとき孫文は来復する。

 あるいは、その結果強大な勢力が出現したとき、近隣諸国の中に孫文とのかかわりが保全として活かされるだろう。

 ともあれ孫文の存在は歴史の事績が表すとおり、調整、融合、意志、保全として、その存在が浮上しておのおのの場面で活かされるだろう。そこからその当事者となるものは孫文の遺した志操を改めて理解し、その安定のための"死せる援助者"として繰り返し語られることだろう。

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 疲弊、復興、繁栄、衰退、混迷。まさに民衆の生きざまのように国家も循環する。老子の言葉を寸借すれば、天地の摂理は循環を理として自ら動くと説いている。

今のアジアの情勢を推察したとき孫文的人物の出現の渇望や、“死せる孫文”の活用は、そう遠い将来のことではなく、その予兆は徐々に湧きだしている。

 孫文再来を請う微風は、やがて六方の風となり、そして潤いとなってアジアに降り注ぐだろう。山田良政の頌徳文の末尾に孫文はこのように結んでいる。
 
「その心、東方に嗣ぐものあらんことを」
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# by Ttakarada | 2007-11-21 08:36  

亜細亜の大経綸

 
 孔子が老子を訪ねたときのこと、孔子を一目みて老子はこう直言した。
(史記 老子伝)「子の嬌気と多欲、態色と淫志を去れ。これ皆子の身に益なし」  

二十数年の間、支那民衆のなかに生き、その体感をとおして一つの感慨を得た佐藤慎一郎は興に乗るとこんなおもしろい話をすることがある。

 「だいたい孔子は女房は替えるし、始終、おカマばかり掘っていて、仁を説きながら陰茎を切って宮中に応募する宦官や、纏足を強制して性の享楽を得るような制度や慣習に一つも意義を唱えないではないか。民衆は生きるために知恵がある。“孔子様か、あれはハナシ”とあざけ笑っている。
 “子曰く、朋遠方より来る。また楽しからず”といっているが、久しぶりに遠くからの友は、いい話か、なにか持って来てくれるから楽しいんだ。これが庶民流の解釈だ。だが、そんな孔子だからこそ民衆にとっては永遠の友なのだ」
 


科挙制度における登用試験の題目は孔子、孟子である。
 その孔子、孟子を一生懸命に暗記した者が合格し、晴れて役人になるわけだが、それ以上に賄賂学に熱中したのでは民衆の孔子、孟子の価値はあざけ笑う面従腹背の活用学でしかない。 『一官九族に栄える』といって、親族の中で一人でも役人に登用され地位が昇るたびに財を発生し、一族だけでなく親族みんなが恩恵に預かるといった俗諺がある。


 そのほかに『昇官発財』(官に昇って財を発す)とか『八字児衛門、朝南開、有理無理○銭来』(役所は南に向かって開いている。理屈があろうが無かろうが銭(税金、賄賂)をもって来い)とか、たまに真面目な役人がいても『三年清知府、十萬雪花銀』三年すれば銀(当時の貨幣)が沢山蓄積されるという。


 このようなことだから孔子、孟子を説く儒学者は『九儒十丐』といって職分の位からいえば下から乞食、儒学者の順でさげすまれている。
 毛沢東も臭九老といって同様に毛嫌いしている。しかし、たとえ「説」であろうと人のために活学し、体現する人間には徹底した人情を添えて献身するのも同じ民衆である。


 生きざまは老子の説く『天下循環思想』に基づいた陰陽、つまり天地自然のなかで自由に浮遊し、水の性質そのものを生活観として『上善如水』(最善の生き方は水のように生きることを自得し、硬くなく柔軟に生きる術を生まれながらもっています。

 『直にして礼なくば、則、絞ず』という言葉どうり、真っすぐな意識だけでは、いずれ自らを絞めるようになると、あえて自らを覆い隠し「嘘」(避けるための知恵、おとしめる嘘とは異なる)によって演技(戯れる)をする順応性が育ったのです。


 満州の高官、張景恵は日本軍人の印象として
 「どうも四角四面で融通が利かない。二、三度戦争に負ければよくなるだろう」と、張なりの愛着と比喩をこめてつぶやいている。


 佐藤は「この民族は決して滅びることはない。人間の持つ欲望である「色」「食」「財」に素直に生きている。しかもいつもは奥底にしまってある「人情」の厚みは他の民族に類を見ない素晴らしいものだ」と理解の根底を述べている。


 それは、他の偽政者とは違う部分で、つねに孫文の存在があるということでもある。現に共産党や国民党の歴代指導者でさえ孫文の存在を無視することはできない。それは漢民族のみならず民衆の希望としてだけではなく、政治体制を問わず権力の混迷し突き当たるところに孫文の存在を認めるからに外ならない。


 現代における専制権力でさえ孫文の存在を温存し、いずれ死せる孫文を蘇生させなければならないことを理解している。それは中国民族だけではない。革命に挺身した我が国の有志を待つまでもなく、あの欧米列強に蹂躙されてアジアに、遠大な志操をもって唱え、立ち向かった孫文の姿は、再度、覚醒の意をもって来復するだろう。


 現に、金融による国際支配を目指す勢力が、だれにでも陥る財という向精神性を刺激し、持てるものが持たざるものの統一を企てているように思われるなかで、便利さの中の合理性と非合理の中の理として対立せざるを得ない状況が起こっている。
 まさに形を変えたアヘン戦争の様相である。
 急激で、しかも一過性ともおもわれる虚構の繁栄は国家のバロメーターさえ変えようとしている。

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秋から冬へ

欲望のコントロール


 歴史のひとコマから見れば支配から解放され百年。 一喜一憂するまでもなく、しかも歴史の検証もすんでない現在、大局的な目で独りよがりではないアジアの優性を確認する間もなく、新たな混迷を招く醜態は、民衆の中にある程よい欲望の消化という優性を、欲望の権化として変化、助長させることでもある。

 突然の衰運を招く以前、マレーシアの首相マハティールは国会で涙ながらに腐敗の根絶を訴えている。中華人民共和国では役人の腐敗を訴え「官倒」と称して天安門に散った若者の記憶は新しい。

 日本では「巨悪」と称される者の横行が言われて久しい。「巨悪」はいずれも国費で賄う国立大学出身者で、捕まえる検察も同窓というのでは、子供のお遊びにも劣る醜態である。台湾も黒社会の横行に手を焼いている。これでは列強の侵略前夜の清朝や、アジアの政治状況となんら変わりはない。


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 どの国にもほどよい慣習や掟はあっただろう。 また、それがささやかな民衆の潤いとして必要悪の存在を認めただろう。ある意味ではそれぞれの「分」に存在するであろうその陋 規は、制度化された社会の一方の潤いとして役立つものがあるだろう。

 融通無碍な体質は「剛」であり「直」であり、ついには自らを絞めることにもなる。支那では柔らかいものは滅びずという。まさに骨は折れ、剛直な筋肉は衰える。だが、舌は衰えることはない。重宝に使えば身を助けるという。

 食、色、財の欲望も、民族の文化、文明の織りなす経糸、緯糸のようなものだ。また経緯が交じるところ摩擦が起きる、人間界でいえば戦争である。それを避けるために清規(法)があり陋規(掟)があり、それぞれが表裏一体を成して、ほどよい調和を導きだし、どうにか社会生活を営んでいるのである。

 つまり、その大前提として自らの「分」と他の存在がなければ、すべて意味のないことであり「無」でしかない。その意味で、孫文は自他の厳存を「無」ではなく「有」として認め、すべての関わりのなかでこそ自らの存在の意義を見いだせることだと、支那一国にとらわれない多面的考察、革命後のアジア諸民族の自立という根本的考察、アジアと西欧との関わりにおける将来的考察などを自らが先導する支那革命のなかで実践したのです。

 アジアの難は自国の憂慮であると、地域共生の理想を掲げ、民衆を激励喚起した哲人孫文を思うとき、再度、孫文の再来を願うのは筆者だけではあるまい。

 歴史の検証にいそしみ、現実の利害に立ち止まっていては描くべき将来はない。いずれ渇望せざるを得ないアジア民族にとって、普遍な人物像である懐かしむべき孫文にあえて請う、孫文的人物の再来を、アジアの民衆はこぞって付き従うであろう。

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# by Ttakarada | 2007-11-20 11:48  

日本人はどこに

 日本人はどこに

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 山田純三郎はことごとく曲解され,命まで狙われた純三郎の心には、そんな肉体的衝撃の危機にも増して,孫文に付き従い恵州で捕らえられ「日本人」だと告げれば死を免れたが、あくまで「支那人だ」と言い張り斬首された兄,良政の意志を、孫文に共鳴する独りの日本人の志操というだけではなく、独立した真の日本人としての矜持をもってアジアの将来に献じたものだと映っている。
 
孫文は革命に殉死した兄・良政の志操を懐かしみ、終生、弟・純三郎を側近において、ときには叱り、あるときは激励して共に歓喜した孫文は、純三郎にとって革命の指導者であり、人生の師であり慈父のような存在であった。
 
それゆえ、国際人となった純三郎なりの先見の推考で提言しても、日本に受け入れられないもどかしさは、とりもなおさず日本の衰亡への道筋でもあった。身を賭した諌言が国賊として身を襲撃にさらさなければならないとしても、あるいは国策の遂行やアジア解放の大義だとしても、山田にとって日本の将来起こりくるだろう惨禍の予測は無念となって重なった。
 “ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。


孫文の強固な意志

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。
 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で

「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」


「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」


 孫文は毅然として

「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」


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鶴見は問う。

「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」


「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。
私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」


「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」

 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)
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「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」


「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」

 日本の対支那外交について問う


「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」


「それは必ず統一できます」


「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する


「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」


「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」


「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」


「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」


「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」


「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」


「しかし、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」


日本は東洋民族の保護者として


「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」
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東亜連盟を主唱した 石原莞爾

「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」



真の日本人とは


 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。
 
 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。
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# by Ttakarada | 2007-11-18 15:08  

 弘前と孫文


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 青森県弘前市は山田良政、純三郎兄弟の生地である。明治の言論人、陸羯南が喝破した「名山のもとに名士あり」と謳われた追木山(岩木山)が四季折々に姿を変え、仰ぎ見るものに愛着と、言うに言われぬ心の鎮まりを与えてくれる。

 戊辰の戦火を避け、いまも残る津軽藩の居城であった弘前城は、城郭を中心に公園として整えられ日本有数の桜の名所として季節の時をにぎわしている。桜枝の隙間から仰ぐ岩木の頂は陽光に輝き、雪と桜がまるで人目を競い奪い合うかのように津軽平野に共生している。

 菊地九郎がその礎を遺し、羯南や良政や純三郎を育んだ弘前の地ではその遺志を継承する人々が多く暮らしてしている。儒学者、伊東梅軒の子で医師の伊東重、孫の郷学者、伊東六十次郎、教育界の重鎮、鈴木忠雄などは郷土文化の伝承、人材輩出の養土のように、まさに郷学にして有力といった弘前教育の独特の養成法があるかのようにもみえる。
 それに加えて東奥義塾の外国語教育、山背の風に立ち向かう“じょっぱり”精神が独特の人物像を描き出している。
 

新寺町 貞昌寺

大手門から西に歩いてほどなく行くと新寺町という各宗派の寺院が混在している一角がある。その中でいちばん奥まったところに貞昌寺がある。ここは津軽藩代々の家老の菩提として霊を鎮めている寺である。入り口付近にはだれが名付けたか、孫文桜の古木が参拝するものを桜のベールで抱き包むように根を張っている。

 左手には住職の赤平法導が大切に護持している良政、純三郎兄弟の頌徳碑が二碑、建立されている。一方は孫文撰書による良政の碑、片方は蒋介石撰書「永懐風義」(永く風儀を懐かしむ)、蒋介石撰文、何応欽謹書による頌徳碑が清掃された碑台に安置されている。
 観光名所ではなく、またそれを知る市民も少ないが、毎年、桜の季節になると中日関係者の友好拝礼祈願がおこなわれ、東京の東洋思想研究団体の郷学研修会を中心に年々振るあいを増している。
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 「なぜ、弘前と孫文が」という疑問が市民にはある。
 郷土から輩出した英明なる人間の歴史をたどるということが少なくなった教育ではあるが、歴史が将来のための鏡として効果ならしめるかは、それも人間の問題である。

 清麗かつ豪気な気風を醸し出す弘前に生まれ、幼少に菊地九郎の薫陶をうけ、長じては向かい家に住む陸羯南に影響され、日本および日本人に対する問題意識を支那の列強からの解放と自立に求めた先見と遠大なる志操は、孫文の唱える「支那と日本との連携によるアジアの安定は、世界の平和に貢献するものだ」という考えに賛同したものではあるが、それのみではない。

「明治維新は支那革命の前因であり成功は後果である」といった孫文の唱えは、良政の寡黙な義侠心を喚起させ、自らの自得した普遍な精神を異民族のなかで問いかけようとする熱情であっただろう。しかも支那民族に我が身を靖んじて献ずるという、殉難を厭わない自己の発揮は、孫文をはじめとした全支那民族の心を喚起し、孫文の意志をより強固に擁護するバックボーンとして厳存している。
 兄に追随した純三郎に対する孫文の慈父に似たさまざまな問いかけは、兄に習うということから兄を継ぐといった壮絶な使命感を呼び起こしたことだろう。
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 つねに孫文に帯同し、革命の隅々を体験した純三郎の姿は、列強に追従して支那を侵食し始めた日本軍部に国賊扱いされたことでも、その心底は複雑であり、敗戦を慚愧の念で迎えたことは容易に想像できることである。
 山田はこの頃、書き残した文章の表題にこう記している。

『国を愛せんとすれば国賊』と。

 昭和16年4月、当時、山田は上海日本語専修学校を経営し、自ら校長として活躍していた。その紹介文には「日華親善の遠大な理想の下に、多数の中国人に慈父の如く親しまれている中国通であり、老上海である」とある。

 山田は国賊といわれ身の危険を感じながらも語っている。

「自分はあくまで"戦争はやめよ"と主張する。然して全面和平を主張する。それは終始一貫した国家的信念である。然らば、現在の日華関係の上に立って、その信念を貫徹する希望ありやと問う人があれば“見込みなし”と言わざるを得ないのを痛恨事とする」


「…中国にも和平ブローカーが存在する。日本にもまた存在する。これらがさまざまな禍をつくって暗躍、跳梁している。かくのごときブローカー輩が蒋介石を動かすことができるものでないことは自分は再三、要路者に忠言を呈したが、これに耳を貸さなかった」

>「このブローカーたちが入り乱れて、あらゆる手段を講じ蒋介石を引き出そうとした運動は全部失敗を繰り返しているではないか。笑い事では済まされない問題である」

>「…汪(汪精衛)にも元気づけた。"日本では君のことを知っておらんから何かやれ"、"何がある"というから犬養先生の墓参りをしなさい、宮崎滔天の墓を建てたらどうか。革命当時、国事に奔走した同志で、既に黄泉の客となっている人々の碑を建てて盛大な慰霊祭をやって遺族を慰めたらどうか」

>「…然らば如何にして全面平和に導くか。その道程においては、国策に反する行動をとらなければ現状より推してその望みは遂げ難い」

「…されど国策に反したことを言えば、それが果たして日本の生きる唯一の道であるとしても、烈々たる愛国心の発露であるとしても、直ちに国賊の汚名を冠せられる。ここに事変処理途上におけるはなはだしき矛盾があり、また我々としても最も苦しい立場がある」

「…全面和平に導びかんとすれば国策に相反し、全面和平の言説を吐露すれば直ちに国賊となるとすれば、全面和平は現場において絶対不可能という結論に到達せざるを得ないのである」
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# by Ttakarada | 2007-11-17 09:47  

孫文は山田に革命後継の人物を聴いた



孫文は側近の山田純三郎に後継総統について尋ねている
「山田さん、次の総統について聞かせて欲しい」

山田は孫文の問にこう応えた
「蒋介石君が適任かと・・・」

佐藤慎一郎は津軽での講演会で「孫文さんが山田さんに次の後継者は誰がいいかと問われたとき、蒋介石を推薦した」と伯父の言葉を伝えている

充分考えられる言葉である。国民党の最高顧問であり、実行間際で終わったが、山田を仲介にした毛沢東、蒋介石の接触や、孫文の指示で満州を日本の経営でロシアの南下を押さえるための工作に蒋介石は石岡という日本人名で山田と潜入しその資質も一番よく知っている。

工作に失敗をして帰ってきたとき蒋介石は真っ赤な顔をして『失敗して帰ってきました』と真摯な態度を示した。犬塚信太郎など革命協力者は、『こんど蒋介石に何かあったら援けよう』と誓っている」

また、日本がだめになったら中国もだめになると孫文の意志を忠実に守り、あの共産軍を攻撃しない東北軍の張学良にしびれを切らして西安の前線にいった西安事件があった


b>戦後は満州国の日本国内の財産の処理を名利に恬淡な山田に依頼していた。『山田先生に任せる

ように・・』との命令だったが、事務方の日本人の公使が財閥に便宜供与し、発覚したら山田の玄関

で土下座して謝っていたと、佐藤慎一郎氏が目撃談を伝えている


あるいは、日本人の軍民数百万の帰還を全力をもって行い、゛徳を以って怨みに報いる゛と中国に発令したことは民族の歴史にもなることだ。また、それを感謝した日本人政治家に向かって『私に礼はいらない、あなた方の先輩に言ったらいい』と、盟友山田をはじめとする辛亥革命に命がけで闘った日本の先覚者を、あなた方日本人は忘れてはならないと訪中(中華民国台湾)した議員を諌めている

大陸から渡った外省人と内省人とのいさかいはあるが、蒋介石は新生活運動という道徳運動を提唱し、息子経国は『国民党が負けた原因は内なる腐敗にある』と、規律維持を政策に掲げている。しかし民族の性癖というべきか権力と賄賂は縁者や側近に染み付いて、いまでも国民党の根幹にシロアリのように棲み付いている。宗家三姉妹の長女は財閥孔家に嫁ぎ財を愛し、美齢は蒋介石に嫁いで権力を愛し、慶齢は国父の妻として国を愛した。美齢は米国に住み時おり飛行機をチャーターして戻ってくるが、故宮の財物も意中のものであった。

蒋介石は革命成就の目的のために孫文の妻の妹をもらって縁戚となり権威をつけた。たしかに前妻をアメリカに追いやりとんでもないことだが、条件に突きつけられたキリスト教に改宗、本妻とする、などの強欲な欲求を忍んだ蒋介石の気持ちも革命成就に向かったものだ。




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山田は「美齢を妾にしろ」と叱責し交流を絶ったが、混乱のなか「山田先生を守れ」と厳命している。それは山田に対して、゛いつか解ってくれるという゛という心情だったのだろう。
戦後、蒋介石は山田を厚遇し、『いつでも来てください。事情が許せばいつまで居てください』と家まで用意している。

また、山田が「蒋さん、そろそろ孫文先生の命令で君と丁仁傑と私で満州工作に行ったことを話してもいいだろう」と問うと、当時を思い出したように「それはいい」と、笑顔で応えている。

当時のことを知らない高官たちは蒋介石と山田の会話を凝視して聞き入っている。

満州工作とは、

≪日本の手で万里の長城以北(満州、清朝)をパラダイスにして、ロシアの南下を押さえて欲しい、だが、シャッポ(帽子、頭に置く)は中国人だよ。そして事情が許せば国境を撤廃してでも日中は連携しアジアを復興しよう≫


これは孫文の意志だが、これは訪日したときに桂太郎と東京駅の喫煙室で会談したことの約束でもあった。




                 
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日本が滅んだら中国もだめになる。
その後の蒋介石と山田の行動は孫文の意志の継承であった。
つまり、民族を超えた「信義」の在り様でもあった。

山田が『孫文さんの意志を全うする為に毛沢東との関係を修復できないか・・・そして日本と中国は提携してアジアをもう一度、安寧に向かわせたい』と、廖承志(初代中日友好交流の責任者であり、革命同志廖仲凱の子息)を通じて毛沢東の了解を得た。もちろん蒋介石は山田の言うことを孫文の意志として随っている。






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孫文の臨終に際して別室にいた山田に妻 慶齢は「山田さんお願いします」と、末期の水をとらせている。山田は溢れる涙を孫文に落としながら、そのガーゼに含ませた水で口元を拭っている。山田の兄は恵洲の戦役で、゛中国人゛と言い張って処刑され、弟は孫文の意志を蒋介石につないでいる。それは中国人と日本人の交誼だけでなく、アジアの安寧を願った孫文への誓いでもあった。
もちろん、思い出話として蒋介石に話している(佐藤談)

独立、和中と軋轢はある。また内省、外省の歴史的軋轢もある。その意味では日本人について揶揄された、゛四角四面゛の姿ではあるが、砂民といわれまとまりのない民族、あるいは財利への直線的指向や賄賂にみる公の意識と、それに添える人情、それらを俯瞰してなお、連帯と統一に賭け、その力をアジアの連帯に導こうとした孫文の意志は、山田を通じて蒋介石に継いでいる。

アカデミックな検証や、うがった見方、はたまた一方の勢力に偏した曲学阿世の売文の輩や言論貴族の弁に歴史を眺めるような観照は望むべくもないが、事象の背景に潜在する誓いや魂のなせる人の情(ころろ)の在り様を、蒋介石、山田という異民族の共有した意志と願いとしてみることができる。


後継のライバルには王精衛もいたが、しかし余りにもボロジンを中心としたソ連の影響下にあった。思想の共感や力の依頼は、状況打開の為の一過性の連衡としてよくあることだが、アジアの被抑圧や国々の煩悶や離反を考えるとき、孫文を領袖とした異国の革命を我がことのように挺身した山田にとって、そもそも孫文が革命を発起し、それに賛同し、アジアの国々がどのような期待を息潜めて中国の安定を待望しているのかという俯瞰した歴史観と将来の逆睹が蒋介石を推挙したのであろう。





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               孫文絶筆




蒋介石は真摯で実直である。その誠実さを山田も認めている。評価は、直にして彼の国特有の柔らかさはないが、それでこそ土壇場でも信念を曲げない剛直さがある。この現在カオスのような国情には必要な人材である。それが山田の人物観だった。

蒋介石は子息経国にたいして厳しく教育している。当初のソ連留学が人質と変化し12年の長きに亙っても決して私事において国家の方針を変えることなく、帰国しても経国に対する厳しい指導は後の台湾施政にも表れている。

軍人、役人への綱紀の粛正、民衆の道徳運動の喚起など、自らが大衆に飛び込み国家の連帯と調和を基とした三民主義の具体的遂行に邁進している。国民党が権力に増長し、終には民衆の離反を招いたことへの反省と慙愧からの出発は、経済においても台湾をアジアの発展モデルとして脚光を浴びた。


人が集えば、取り巻きや反目があり、嫉妬から抗争が起きる。しかし民族歴史を俯瞰した忠恕とそれを執行する突破力や勇気は、数値に表される大小、多少のみならず、東洋のいう人格とか識見に多くを委ねなければならないのは歴史の栄枯盛衰を観ても必須の人物観でもある。


山田は必然の訪れと、民族の統領として、また諸外国との調和、あるいは何れアジアを代表する指導者となる資質を推挙の基としたのである。

もちろんその意味は孫文も同じだった。それは異民族たる山田に確認したようにも思える尋ねごとだった。



山田は『慎ちゃん』と呼び、つねに相談相手として行動を共にしている。

筆者が「のろまの純コウと寝小便の慎ちゃんでも歴史を作りましね」というと、



『人間は無駄には生きていないょ。だだ、叔父の語りは記録ではなく記憶だから日時は間違っていることがあるが、研究者は当てにならないといっている。でも、伯父がいつも言っていた、「孫さんは・・」「あのとき蒋介石は・・・」と革命同志の人間味溢れる逸話が臨場感を帯びてが語られるとき、本当に必要な歴史が身近になる。そもそも、記録では頭が動いても心は動かない。これでは革命も語れない。つまり人間の歴史の嘘の部分だ。その場で革命の記録など書けないのが真実だ・・。この歴史の事跡は中国人と日本人の歴史として恩讐を超えて甦る。孫文が真の日本人と称した明治の日本人と中国人との共同精神は必然の歴史として甦る。いやそのような人物を求める必然の時がくる。それまで、皆さんが繋ぐことが大事だ』

まだ、遅くない。諦めるのは早い。そんな気持ちにさせる逸話でもある

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# by Ttakarada | 2007-11-16 09:39  

山田良政小伝




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《 アジアに生き、中国革命を吾がことの様に挺身した日本人》

中国民族から国父と尊崇されている孫文が、その自序伝の中で、
「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟、宮崎兄弟、菊池、萱野がある」と、はっきりと書き残している。
その山田兄弟とは、山田良政・純三郎兄弟のことであり、菊池とは菊池良一のことである。
しかもこの三人は、ともにこの弘前出身の人たちである。

良政は、1868年(明治元年)12月3日、百石取りの津軽藩士、山田浩蔵、きせの長男として弘前城下に誕生。良政は、東奥義塾卒業後、二~三の変遷を経た後、中国の上海に渡ったのは、1890年(明治23年)のことであった。
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良政は、その澄んだ瞳が示しているように、その心には一点の邪念もなく、寡黙せあまり物を言わない“静を為さずして静自ら生ず”といった物静かな人で、動かずして信じられ、言わずして信じられた。 しかも一諾千金に重みをもった、堂々たる風格の青年であった
1899年(明治32年)、良政が一時帰国して神田三崎町に居た時、孫文自らがその寓居へ良政を訪ねて来ている。 初対面であった。

西欧の独断的な制圧に遼弄され尽くしていた全アジアに於て、唯一人毅然として自ら起ち上がった日本民族の美事な英姿に感激して自ら起ち上がった人々がいる。
それは印度のポンセー、フィリピンのアギナルド、それに中国の孫文という人たちであった。
良政は、その孫文の祖国中国に寄せる愛国の情熱、アジア復興に対する崇高な理念、そしてその情熱の滲み出るような人柄に深い深い感銘を受けたようであった。 
良政は、その直後 敏子と結婚。 良政が中国革命に殉じて中国の土となったのは、その翌々年のことであった。

良政はその翌年1900年(明治33年)2月には南京同文書院の教授兼幹事として、 南京に赴任していた。
その8月、孫文が平山 周とともに良政を訪ねて来ている。 良政は、弟純三郎を連れて上海の旭館で孫文と会談している。 その時純三郎には会談の内容に就いては全然分からなかったが、後で孫文から聞いたところによると、孫文がいよいよ台湾の対岸の恵州で、清朝打倒の旗揚げをしたいという。 
それに対して良政は、
自分の叔父菊池九郎(弘前出身)と、台湾の民政長官後藤新平とは特別な関係がある。その後藤 に革命援助のことを頼んでみようという事を約束したのだという。

平山周 の記録によると
「予(中山)は、良政と向後の計を議す。 君(良政)いわく男児、事を謀る。 中道にして廃すべからず。 まさに最後の一齣(セキ) を演じてやむべし」 (良政は)概然として職をなげうって福建 章州に向う・・・・ と、あるように良政は南京同文書院の職を投げうって台湾に向かっている。 
結局、良政が孫文に引き合わせた後藤の計らいによって児玉源太郎台湾総督府長官は、
「武器の供給と将校数名を貸与してやるから、革命軍は台湾対岸の海豊、陸豊まで進撃して来るように」と、孫文と確約してくれた。

孫文は直ちにその旨を鄭士良に指令し、鄭は勇躍挙兵にふみ切ったのであった。
好事魔多し。 9月26日山県内閣は総辞職し、10月19日伊藤博文内閣に変わった。
新内閣は、革命軍に対する武器の援助と将校の支援を厳禁してしまった。 万事休す。
良政は同志数名をともに、孫文の解散命令を鄭士良軍に伝えるべく大陸へ潜行した。 結局革命軍は涙を飲んで解散。 良政は少数の同志とともに退散の途中、三多祝で洪兆麟の率いる清兵と出遇い激戦となり、良政は遂に捕らえられて斬に処されている。

孫文が1917年(大正6年)9月10日、大元師に就任、広東政府を樹立していた時のある宴席で、孫文は洪兆麟師団長に対して、同席していた良政の弟、純三郎に眼鏡をかけさして、
「君の殺した者の中に、こういう人相と似た者は、いなかったか」と尋ねた。
じっと純三郎の顔を見詰めていた洪兆麟は、
「貴君の兄さんを殺したのは、この私です。どうか存分にして下さい」と申しでたと純三郎は語っている。
なお 洪兆麟の語るところによると
「私が殺した人は、弁髪で、眼鏡をかけ、支那服にわら帯をしめた外国人で、メリヤスのシャツを 着ていた 」 当時メリヤスは、中国人は着用していない時代だったので外国人ということが分かった。
それで、「お前は外国人だろう」と、何回も聞き返したが、最後まで淡々として中国人だと答えて斬に処されたという。

時に良政は、三十三歳。  妻とし子は、結婚して3日間良政と居を共にしただけであった。
その後上海の良政から「そのうち迎えに行く。両親を頼む」という端書が来た。 敏子はその一枚の端書を唯一の頼りとしながら、永遠に帰らざる夫、良政を待ち続けていた。
良政は、たしかに非運に倒れている。 しかし良政自身はそれを最初から自らの使命観に徹する者であった。だからこそ一死万世に生き得る者であると言うことができるであろう。
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# by Ttakarada | 2007-11-16 09:38  

山田良政建碑紀念の碑(直訳)と孫文哀悼の文


その志,東に於いて嗣ぐものあらんことを

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孫文の山田良政を悼む追悼原文

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弘前 山田家墓基

君の兄弟は、ともにふるって嘗って力を中国の革命事業に致す。しかるに君は庚子(1900年、明治33年)。恵州の役を以て死す。後十年にして、満州政府は覆える。
初め余は乙未(1895年明治28年)、粤(広東省)を図りたるも威らざるを以て海外に走る。(孫文は、11月12日神戸着)。

すでに休養すること 、党力復び振るう。余は乃を鄭士良をして、 を率いて先ず恵州に入らしむ。余は日本軍官多人と偕に、香港より内地(中国大陸)に潜注せんとす。(山田)君は、実に随行せんとす。巳は 密告し、陸に登を得ず。乃ち復び日本ひ往き、転じて台湾に渡る(9月28日、台湾基陸着)。

時の台湾總督児玉(源太郎)氏は、義和団乱を作し、中国の北方は無政府状態に陥りたるを以て、則ち力めて余の計画に賛し、且つ後援を為すことをもかぶと允す。
余は遂に鄭士良をして、兵を発せしむ。士良 を率い、出て新安、深 を攻め、清兵を敗り、 その械(武署)を獲る。龍図・淡水・永湖・梁化・白芒花・三多祝などの処に転戦し向う所みな捷つ。遂に新安・大鵬を占領し、恵州海岸一帯の沿岸の地に至る。
以て余と幹部人員の入ることと、武器の接済(供給救済)を待つ。

図らずも恵州の義師(義兵)発動して旬日にして、日本政府更換し、新内閣總理伊藤(博文)氏(10月19日、新内閣成立)の、中国に対する方針は、前内閣(山県有朋總理)と異なる。則ち台湾總督を禁制して、中国革命党を通じることを得ず。また武署の出口(輸出)及び日本軍官に投ずる者を禁ず。
而して余の内渡(中国大陸潜入)の計画は、之が為めに破壊す。

 遂に(山田)君と同志数人を遣わして、鄭軍に往きて情形と報告させ、その機を相して便宜に事を行わしむ。(山田)君は間道して恵州に至りしも、巳に事を起こしてより後三十 日に在り。
士良の部る(統率する)ものは、連戦月 。幹部軍官及び武器の至るを渇望すること甚だ切なりき。
忽ちにして君の報告する所の消悉(消息)を得。
巳むを得ず、 を下して解散し、間道して香港に出ず。随う者なお数百人。

しかるに君は路を失い切なるを以て、清兵の捕らえる所と為り、遂に害に遇う。 し外国の義士にして、中国の共和の為めに犠牲となりし者は、君を以て首めとなす。 論ずる者は、みな恵州の功無くして、非戦の罪を曰う。

日本政府をして、やはり前内閣の方針を守らしめなば、則ち児玉氏、中変(途中にして変更)するに至らざれば、即ち我が為めに援助せず。しかし武器の出口(輸出)及び将校の従軍者を禁制と為さざれば、則ち余の内渡(中国大陸に渡る)の計画は破れず、資けるに武器を以てし、また兵を多く知る者之が為に指揮せんか、まさに士気 (高揚し)、鼓行(堂々と進軍)して前まん。天下のこと

しかも革命軍はして、この挫折無かりせば、則ち君は断じて以て不幸にして (殺さ )せらるるに至らざること、抑も論を持たず。然るに君は、曽ひ政府の 厭(革命軍に対する好悪の態度)を以て意と為さず、命を みて険を冒す。

死すると も辱じず。以てその主義に殉ず。 によくなし難くして貴ぶ可き者なり。
民国成立して七年。君の弟山田順三郎始めて君の骨を以て帰りて葬る。
今また君の為めに石に み、以て後人に示す。

君の生平(平常)の (正しい道にかなった行い)は、君の親族交遊、よく之を述ぶ。
余の言を と無し。余は君を重惜(非常に惜しむ)す。故にただ君の死に至りし本末を挙げ、表わして之を出すのみ。
更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを
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# by Ttakarada | 2007-11-14 09:37  

後藤新平の胆力

 
 山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。
「武器とお金を用立てて欲しい」
 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。
「借款というのは信用ある国と国が何なにを抵当としたうえで幾ら借りて、利子は幾らで何年で返すということだろう。きみたち青年の志すところは正しく、意気壮とするといっても誰も知りはしない。また清朝を倒すといったっていつ倒れることやらわからない」

「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」

「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」

「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」


 靴で床をトントンと踏んでいる。銀行の地下室に銀貨はある、という意味である。
 物わかりがいいと言おうか、繊細さと図太さを合わせ持ったような後藤の姿は、官吏を逸脱するというか、常軌を超越した人物である。また、人間の付属価値である地位や名誉、あるいは革命成功の不可にかかわらず、しかも正邪を表裏にもつ人間の欲望を恬淡な意識で読み取れる人物でもある。
 
 虚実を織り混ぜ、大河の濁流に現存する民族が希求しつつも、だからこそ、かすかではあるが読み取れる真の「人情」を孫文はみたのである。植民地として抑圧されたアジアの民衆が光明として仰いだ我が国の明治維新は、技術、知識を得る大前提としての「人間」の育成であったことを孫文は認めている。
 それは異なる民族の文化伝統に普遍な精神で受容できる人間の養成こそ再びアジアを興す礎となると考え、そのような人格による国の経営こそ孫文の唱えた“西洋の覇道”に優越する“東洋の王道”であった。
 晩年、孫文は純三郎にむかって
「後藤さんのような真の日本人がいなくなった」と、幾度となく話している。
 それは錯覚した知識や、語るだけの見識を越え、万物の「用」を活かす胆力の発揮を、真の人間力の効用として、またそれを日本人に認めていた孫文の愛顧でした。


 ◆革命の旗揚げと山田良政  c0142134_1146422.jpg

明治33年、後藤からの革命支援の確約と知恵をさずかった孫文は、山田良政に密書を預け香港の秘密結社である三合会の首領、鄭士良と合流して広東省恵州に潜伏し、旧7月打倒清朝の旗揚げを決行した。

運動会の旗
 この義挙のとき中華民国の青天白日旗が日本人の手によってはじめて三州田に翻ったことは革命史のなかでも特筆すべきことでもある。運動会に使うからと日本で作らせた旗が、列強の植民地化に手をこまねいている清朝打倒の旗印しるしとして良政の手によって掲げられたのである
 
 8月中旬に80人余りだったものが下旬には1万人の軍勢となり、日本から武器を待つばかりとなっていた。しかし日本国内の政治状況の変化は、伊藤総理による児玉台湾総督にたいする援助打ち切りを命令したことによって革命党は苦境に立たされることになる。
 しかも袁世凱の革命党討伐の追走は烈しく、山田は捕らえられ日本人最初の犠牲者として処刑されたのだ。

 当時の状況は青森の新聞社、東奥日報に載せている弟純三郎の回顧談から見てみよう。
 …良政は確かに孫逸山を助けて革命の旗を揚げたとき、恵州で戦死したと判断されたが、その遺骸はどう処置されたのか、その墳墓はどこにあるのかさえ皆目知れなかった。
 …近ごろに至ってある奇縁から純三郎氏は良政氏の命を絶った者からその墳墓の地の存在を聞き知り、思い出多き令兄の血を流した小さな丘の土を遺骨となぞらえて携え帰国した。
 …純三郎が所用があって広東に行ったとき、国民党の軍人洪兆麟に会ったとき、たまたま兄良政のことが話題になった。軍人は驚きながら膝を寄せて思い起こすかのように18年前の記憶をたどりながら静かに語った。

「当時、恵州を固めていたのは私の兵だった。私は守備地に潜入して荒れ狂う志士の一隊を討伐にかかった。良政氏は支那服を着て縄帯を締めていた。そして自ら陣頭に立って三合会の荒武者を指揮していた。しかし彼らは他の方面から崩れ、私の兵を支え切れなかった。良政氏の叱咤激励も効なく、多勢の非を見て後方へ退散してしまった。良政氏は他の五名と枕を並べて戦死した。私は遺体を三多祝の丘の一隅に埋葬した。良政氏は戦死したとき軍用金として香港貨幣1000ドルを所持していた」  支那人として革命に参加し、死の直前まで支那人として生きた良政の真骨頂がみえる。良政に指揮され死を共にした民衆にとっても、まさに良政は支那人そのものであった。

「良政氏の肌着がメリヤスであったことで日本の宣教師であろうと推察し、宣教師とすれば外交上の重大な交渉の問題になるとの恐れから、今日に至るまで命を絶ったことを秘密にしていた」  純三郎は兄の遺骨が埋められている場所を知り、夢かとばかり喜んだ。その後、大正7年討伐第三司令として大軍を率いて福建軍と対峙していた洪氏に面会した純三郎に対して、わざわざ副官を現地に同行させ、当時の情況を詳しく説明させ良政の霊を鎮める祭典をおこなっている。恵州鎮守使、李福林は良政の事績に感動し、三多祝の丘に記念碑を建て永くその功績を讃えている。
 
一方、良政を失った孫文の落胆は尋常ではなかった。革命が成功し清朝が中華民国になると民衆は孫文の偉業を称えたが、孫文は良政のことを偲んで回想した。共に純粋かつ理論家であり、一国の一利一害に翻弄されることのない人間としての矜持を肉体的衝撃をものともせず表現している。
 
とかく知識をもって高邁な論理を振り回す「説客」の幼児性は、単なる一語一章の記述によって偽政者の甘心を誘い、その施策建言の成果を名利慢心として享受しているが、民衆はその"きまぐれ理論"に翻弄された歴史の事実は知識人に対する「あきらめ」「さげすみ」の対象として抜けがたいおもいがあった。
 
 良政の行動は、民族と歴史を越えて新鮮な感動を与えてくれる。
 そのことは論理の実証であり革命の偉業として、孫文や同志が全中国人民を代表して良政の「義」と「徳」を称え、「…その志、東方(日本)にて嗣ぐものあらんことを」と日本人に覚醒と喚起を促していることでもわかる。
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恵州 の戦闘配置系図  (台北忠烈廟資料)
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# by Ttakarada | 2007-11-12 11:54  

満州と孫文


後藤新平に観た孫文の日本人観 

 山田純三郎の兄、良政は
「男子事を謀る。中道にして廃すべからず。まさに最後の一戦 を演じて止むべし」と語って慨然として職を投げ棄て福建省の彰州に向かっている。
 
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上海から弟、純三郎に宛てた手紙にあるように自らを鼓舞し、アジア復興のために中国革命に靖献した良政は、自らが革命の運命を導き、自らを一番理解する孫文のために命を賭けて行動すれば鬼人もこれを避け、必ず成功するという気概があった。

 しかし、怒声を発して人を威圧したり、他人を扇動したりする策もなく、沈着冷静にして人の心を真義に導くような人物であった。良政は自らの縁を革命の一助にできればと、伯父、菊地九郎の回顧から後藤新平に革命の助力を懇請することを思い立った。
 
当時、後藤は満鉄総裁を経て台湾総督府の民政長官をしていた。
 そのころ孫文は恵州で挙兵するため、各方面に援助を請いながら準備を進めていた。一方、フィリピンのアギナルド将軍は孫文と同様に明治維新に触発されていた。アギナルドとは武器援助などの面で協力関係にあったが、それでも革命に必要な武器が不足している孫文は、山田を通じて台湾からの武器援助を交渉させている。良政にとって後藤は一面識もない人物であった。
 
そこで佐藤の口述から記してみよう。
「九郎伯父さんが、明治5年に弘前で東奥義塾を創設したとき、まず行ったことは外人教師の招請だった。弘前は薩摩と同様に日本列島の南北の両藩は中央権力から遠ざけられていたが、日本の北端といっても昔は蝦夷、樺太から凍結を待って徒歩で大陸に渡り、ロシアと交易を行っていた。薩摩は南端にあっても、沖縄、ルソンを通じた南方交易で、アジアを影響下に置き始めた西洋列強と接触し、さまざまな文化交流に伴って起きる危機意識の覚醒を促していた。これに比して江戸幕府が行う鈍重ともいえる対外政策に疑問をもち、明治維新を促す動機を育んでいた。
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弘前城内 菊池九郎顕彰費

 津軽藩の弘前では幕末の漢学者、伊東梅軒の旧宅に今でも遺されている「松蔭室」で経国を論じた吉田寅次郎(松蔭)は津軽海峡に進出してきたロシア軍艦の視察に訪れている。このように阿片戦争から生じた香港割譲や江戸に到来したペリー艦隊の情報、そして北方を脅かすロシアの動向は、北端の津軽藩だからこそ収集できる情報として後の維新の混乱を回避できた一因でもあった。
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伊東梅軒の孫 伊東六十次郎氏

 九郎伯父さんは東北での奥羽列藩同盟の津軽藩の使者として庄内藩に赴いたんだが、津軽藩が直前に同盟を回避したことに義憤を生じ、戦闘同盟の違約を自らの身体で果たすべく庄内に参じたわけだ。そんな伯父さんの気質からすれば、薩軍の総大将だった西郷隆盛が庄内藩に与えたとてつもない度量に感動して、薩摩の「私学校」に向かわせたのは当然ともいえる行動だった。もともと熊本の菊地家の系図をくむ九郎伯父さんのこと、気概の同感というべきものだろう」


 ◆菊池九郎の人間教育
 
佐藤は幼少のころ一緒の蚊帳で寝起きした九郎の慈愛の心情を思い浮かべるように語りをすすめる。
「維新の混乱は、山背の風といわれる追木山(岩木山)の寒風にさらされた津軽平野をおそった凶作とともに、人心の疲弊まで巻き起こし、ややもすれば閉鎖的といわれた民情を、より暗いものにしていた。いつの時代でもそうだが、天を恨み、政治を批判する、まるで生きる目的さえ無くしたかのような状況の中で、伯父さんは「人間がおるじゃないか」と独り決然として人間教育の行動を起こしたのだ。

 手始めに明治5年、東奥義塾を創設して外人教師の招請を行った。伊東梅軒の儒学、北前船による北陸、京都の影響、そこから生ずる剛直さと、しなやかさの調和、そして米国人教師から得る最新の知識と情報、そして見逃してはならないキリスト教の影響だ。弘前には洋風建築物とともに、いたる所で当時としては珍しい西欧の最新文化があったんだ。

 当時、日本各地にみられたさまざまな拙速な影響ではない。津軽人が育んだ伝統文化と人間教育のための根本資質の涵養があった。
 津軽武士の残像が相まっての気骨が明治人の気概や器量として培われただけではない。南端の薩摩、四国の土佐、日本海側の萩、小浜、越後長岡と変革期の逸材の輩出とともに、津軽人の北端からの南下、あるいは海外飛躍への行動力として発揮されたのだ。外国人教師の招聘は語学力の目覚ましい向上を果たし、また教師の見識から学ぶ、海外においての人格価値の共有という自信が、よりその行動を促したといえる」


 ◆ユング教師の伝えたアメリカとリンゴ  

津軽を懐かしむ佐藤の言葉は"人間至る所、青山あり"といった地球上のどこにわが身を置いても時流に迎合せず自らを見失わず、しかも衆を頼まぬ「孤高の憂国」といったものを感じさせるものだ。
「ユングという教師がいた。ユングが語学授業の合間に語る米国の思想や民情は、生徒の感動を呼び起こし、ときに忠孝の話になると、一同、感涙し戦慄といった状態がしばしばあった。
 


りんごの原木c0142134_1948918.jpg

来日のときに大切にもってきた米国リンゴの苗木は、その後の津軽の殖産事業として立派に役立っている。その原木はわが家の前にある。余談だがそのリンゴの育成方法を教えてくれと長野から来たが、なかには小心者がいて『せっかく儲けられるものを教えられない]』と追い返してしまった。
 それを聞いた弘前の樹木というところに住んでいた外崎政義が烈火のごとく怒り、時には偏狭な津軽根性を戒めたのだ。リンゴで興き、リンゴで滅ぶ津軽魂だよ」
 
 郷里 津軽を慈しみ、ときとして津軽人を憂うる佐藤は、つねに弘前は日本の一部分、日本はアジアの一部分、アジアの安定は世界の平和だと語った。4人兄弟のうち2人は米国へ、良政と純三郎は孫文の革命に挺身している環境の中で、自分という"自らの社会の中の分(ぶん)"を自身の行動で探し、次の世へ遺す啓言でもある。

「そのユング先生が来日するので江戸(東京)へ迎えに行くことになった。当時、海路もあったが、奥さんが船酔いに弱いというので東北道を使うことになった。江戸まで25日余り。弘前を発って今の岩手県の水沢を過ぎたころ、一人の少年が九郎伯父さんに添って歩くようになった。事情を聞いてみると、学問のために須賀川まで行くという。道すがら学問の話、世界情勢、日本の進むべき道、そのためにどんな学問をしてどんな人間になるか、といった話だったが、歳は違えど"切れのよい呼応"での問答があった。その少年が後藤新平だ
 

◆後藤新平に採用された純三郎


 その後藤には純三郎も縁がある。大陸へ行って満鉄に入りたいと考えた折り、伯父九郎にその事情をはなして後藤に縁をつないでもらおうと思い面会にいったことについて後藤という人間についてこう言っている。
「後藤という人物は誰々の紹介などというとなおさら採用などしない。それより目的と意志と完遂する勇気を見せることだ」
 純三郎が面接に行くと九郎伯父さんが言った通りの人物だった。寡黙な良政とは異なり、応答辞令の長けた純三郎が面接採用後に伯父との関係を伝えると、後藤は生涯、師と仰いだ菊地九郎との回顧を懐かしみ、その甥純三郎との縁の感激に浸っていた。

 良政の後をうけ革命に挺身する純三郎は、自身の身分である満州鉄道株式会社の社員として業務履行の妨げになると上司に上申したところ
「満鉄の社員は何人いる。その中に満鉄のために働く者も大勢いる。国のために働く者もいるだろう。しかし、日支善隣友好のため、ひいてはアジアの安定のため行動しているのは何人いる。満鉄のことなど気にすることなく一生懸命やりなさい」

 純三郎はそのあと、給料が増額されたのに驚いた。後藤の器量が委ねた大きな希望の意味に背筋が凍りつくような感動を覚えたことは言うまでもない。孫文が日本人を語るとき、つねにその後藤を懐かしみ、後藤に真の日本人の姿を認めた心情が山田の口から語られる。

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津軽の冬
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# by Ttakarada | 2007-11-11 19:56  

老 朋 友 


◆桂太郎との会談
 
山田は自身の臨場体験を踏まえ、孫文と日本人の交流を語っている。
 このことは山田の甥、佐藤慎一郎が山田から直接聞いた事がらを「孫文をめぐる日中秘話」に著しているので参考としたい。

 臨時大総統を辞任した孫文は「全国鉄道計画全権」という名義で1913年2月10日、上海をたち日本に向かいました。随行者は戴天仇、馬君武ら5名の中国人と山田純三郎たちでした。14日の新橋駅では犬養毅らが出迎えています。とくに中国人留学生3000名の熱狂的な出迎えに駅周辺は身動きもならないほどでした。

 孫文一行は、帝国ホテルに宿泊、日本政府が孫文にやや好意を示したのは、後にも先にもこの時たった一回きりでした。
 孫文は今回日本を訪問した真意は、清朝を倒すことは成功したものの軍閥、袁世凱を倒さぬ限り革命は成功したといえず、何としても日本の援助を取り付けて袁世凱を打倒したいということにあったのです…

 2月15日、東亜同文会名義で後藤新平が孫文を歓迎しています。孫文はスモーキングルームで内閣を辞職したばかりの桂太郎と密談しています。同席したのは戴天仇、山田でした。
 戴天仇はその著「日本論」の中で『中国で排満革命が成功したとき、彼(桂)はわざわざ中山(孫文)先生のところに使者を送り親近の意を表している。中山先生の日本訪問に際しては、たまたま第三次内閣の総理であったが、彼は密かに孫文先生と二回にわたって会談している…』と密談の内容の一部を伝えています。

 ところが何故か、その密談の真相については伝えていないのです。
 その真相については同席した山田が次のように語っています。しかも私(佐藤)には何度となく語っています。それだけ両者が胸襟を開き、日中の招来を語り合ったことが分かります。
「自分は孫文先生、戴天仇と一緒にスモーキングルームで桂公(桂太郎)に会ったが、その時、桂公は日本の人口問題に就いて切り出している。『現在、日本の人口はどのぐらいと思われるか、あるいは年に何人づつ増えているかご存じか』とか問うている。
 
そして桂公が『この狭い日本では、今後20年後、50年後にはどうなるだろうか』と言ったとき、孫さんはそれに答えず、立ち上がってぐっと手を差し伸べて桂公と長い間、無言の握手を交わしていた。それが孫さんと桂公の初めての会談で、非常に劇的といってよい感動の場面であったことを、はっきり記憶している。
 
孫文の満州についての提案

第二回の会談には同行しなかったが、その時の話を後で戴さんに聞き、孫さんに確かめたところでは、孫さんは桂公にはっきりと提言したことは

『日本が将来、生きて行く道は満州でしょう。満州は日本の力で開発し、理想郷、模範国にしてもらいたい。しかし主権は侵させない。帽子だけは支那の帽子です。そして最終的には日本の国情が許すなら、日本と支那の両国は国境を撤廃してでも共に生きましょう。そして、一方ではロシア勢力の南下を押さえて白人の東亜侵略に備えようではありませんか』と日支百年の将来にわたる大経綸に関する提案をしている。

 それに対して桂公は「私がもう一度、天下をとったなら、孫さんとの約束を必ず実行に移そう」と堅い約束を交わしています。山田はこの話をするときに必ず「どうだ、孫さんの大きいこと」と言うのが口癖でした。

 孫文としては日本の援助によって、どうしても袁世凱を倒し、中国の統一を図りたい。その代わりに中国も日本の満州における特殊な地位を尊重しよう。そうすれば日本としても国防問題、人口問題など解決ができるのではないか。 c0142134_1352555.gif
 このような考え方をもっていたのだと、山田は明確に何度となく語っています。
 興中会の誓詞には「韃靼、韃虜を駆逐して中国を回復して合衆政府を創立する。もし二心を抱くことがあるかどうか、神よ、はっきりと御照覧あれ」と宣誓している。当時、孫文にとっては漢民族の回復を大前提として、万里の長城以北は我関せずの心境であった。

 その後の下田歌子や三井財閥の森格らとの援助を前提とした満州問題に一つの筋道をつける事として明記されるだろう。 c0142134_1358457.jpg
【石原莞爾】【張作霖】

 しかし孫文は臨時大総統就任の宣言文の中で初めて「…国家の本は人民にあり、漢、満、蒙、回、西、を合して一国を為す。漢満蒙回西を合して一人と為すが如し。これを民族の統一という」とこの時初めて満州の主権を主張したのです。この宣誓文が書かれたとき、孫文はハワイに滞在していてこれを知ったと山田は言っています。
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# by Ttakarada | 2007-11-10 14:07  

山田純三郎

山田純三郎

 
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疎んじられても期待をせざるを得ない状況と、なお警鐘をこめて熱情を注ぐ孫文の心には、多くの日本人との人格を認めた交流があったことを山田は、兄・良政の言葉とともに述べている。

「自分が孫さんの意志を頭でなく身体で理解し、ついて行けたのは上海から送られてきた兄の手紙だった。純コのバカと通称され、意気地なしの自分を激励し誉めてくれた九郎爺さんのお陰で、いくらか世の中に慣れてきたときだった。そのときの兄の手紙が、その後の自分の生涯が決定づけられたといってもいい…」

 幼少から同じような環境にあった佐藤慎一郎にとって、山田の話が手に取るように理解できる。佐藤も蚊帳のなかで菊地九郎と寝所を共にして得た、言うに言われぬ九郎爺さんの暖かみは、純三郎の思いと同じように生涯を決定づけるような無言の教訓だった。

 佐藤とて十幾つまで寝小便が治らず、自らを嘆いて親類の伯母の家に放浪し投宿している。
 菊地九郎は幼い慎一郎に優しく諭している。
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「慎坊は体が丈夫ではないから大きくなったらベコでも飼って生活したらいい」
 その後の師範学校当時のエピソードを語る慎一郎の成長は、まるで伯父、純三郎の幼少時、純コの馬鹿といわれた山田と似て、いかに九郎爺さんの存在が無形の影響として偉大なものであったかを、後の成長と両者の人生観の基として表している。
「それで、上海からの伯父さんの手紙の内容は…」
 山田純三郎は当時を思い起こすように、慎一郎に聞かせた。

兄良政より弟純三郎への手紙


「明治12年6月15日に書いたものだ」 c0142134_854059.jpg

 山田はそういって大事そうに何度も読み返された手紙をひろげた。

『初志貫徹、最初の志を枉るな。屈するな。やれるだけ実行することが大切だ。卑屈なことや、下賎なことに目もくれるな。大丈夫たるものは困難に困難を重ねることによってこそ初めてモノになる。女々しい心など出さずに、志を堅固にもち続けることこそがいちばん大切だ』

『たとえ、希望の彼岸に遠くとも志の一字さえあれば金石のような硬いものでも、ついには射貫くことができるだろう。大丈夫の尊ぶところは一つの志だ。志なるモノは人が教えても得られるものではない。自分自身のこころに発し、自分自身を奮起させてこそ、はじめて志しなるものができあがるのだ…』

 
山田も人間の価値として、ないよりはあった方がいくぶん重宝というぐらいの、地位、名誉、財力、学歴といった付属性価値よりも、革命のように土壇場の人間力や、なによりも大切な異民族に対しても、分け隔ての無い普遍な精神の醸成を理解するのである。
 山田は甥である慎一郎に伝え聞かすように語った。

「手段や方法ではない。人間の根本を兄さんは教えてくれた。子どものころ唐詩選の歌カルタをやるたびに何時もたしなめられた。だがその時とは違った自分を人間として認め、激励してくれた」

「何をやれ、どうしろ、といったこまごました指図はなかった。それは慎ちゃんも知っているだろうが、風で落ちた売り物にもならないリンゴを馬市に売りに行ったときに、九郎爺さんから、『純コ、おまえは勉強が好きではなく本も読まないが、一銭一厘まちがいなく届けてくれる。これは嬉しいことだ。人間というのはそういうことだょ』と、言われたことと同じで、自分の人生に終始、忘れずもっているものだ」 c0142134_813533.jpg
〈弘前城内菊池九郎の顕彰碑〉

「孫さんにも叱られるし、人生、叱られ、激励されながら生きてきたようなものだ」
 佐藤は、改めて自身の体験をとおして自得した精神の重要さを、山田の言葉によって再確認した。身内について語ることをはばかる佐藤だが、後に、あえて次世への提言として山田についてこう記述している。

『…純三郎は何事も、その解決のみちを他人に頼らず、自分自身に求めています。自ら苦難の道を求め、からだごと真っ向からそれに立ち向かっています。自分自身の可能性に挑戦していたのでしょう。しかも、他人が一度でできることを、純三郎は5回、10回とそれができるまで何回でも繰り返すことによって完成させています。純三郎にできたことは、ただそれだけでした」

「純三郎は逆境、苦難のなかにおいてこそ見捨てることのできない、いとおしい自分を発見していたのでしょう。だからこそ、純三郎はそうした苦難に耐え抜きながら少しづつ成長したのです。苦中の苦を経るたびにこそ、たくましい青年に育っていったのです。純三郎が南京同文書院第一期生として上海にわたったのは明治32年8月、23歳の時でした」

「機関車の掃除夫を辞めて、天下を大掃除しようとしたのでしょう。 『大丈夫たるもの、四海に志せば万里なお比隣のごとし』。純三郎にとって中国大陸の上海も、隣家のように近かったことに違いない」
 
佐藤は自らの気骨、気概を投影するように山田を語っている。時を違えたが、“純コ”“慎坊”と呼ばれた幼少時の愚鈍な少年が、ともに九郎爺さんに抱かれて見た夢は、先導役である兄良政の鮮烈な行動によって結実し、兄が身をもって示した死よりも崇高な精神の価値としての孫文の志操を伝播、継承することで開花したのです。
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蒋介石は革命の先輩である山田純三郎の死に当って献書している

山田純三郎先生記念碑(意訳)c0142134_821481.jpg

末永く、風義を懐う 〈風格、威〉
 蒋 中正 題す
山田純三郎先生墓碑

中国の国民革命が艱難辛苦とともに奮闘している時、革命党は、日本の友人山田良政とその弟純三郎の多くの助力を受けました。
山田良政先生が、恵州の役において、義侠的な使命に赴いて戦死した時、国民党の總理孫中山先生は、二度文章を作り同時に墓碑に親ら書いて、山田先生の人道の犠牲、亜細亜州の先覚者であることを誉め称えた。
その後山田純三郎先生が世を逝ると、国民党總栽 蒋介石先生は、彼の為めに記念碑に題して`永く風義を懷う´と云い、それによって彼の革命的道義を記念し、しかも末永く誌して忘れないようにした。
山田家一家は、その兄と弟と同じように苦難を共にしており、同じく忠義の模範となる。鳴呼、なんと賢いことであろう。
            中華民国陸軍一級上将 何応欽 敬撰並書

中華民国六十四年三月二十九日(1975年、昭和50年。`三月二十九日´は、旧暦。新暦では、4月27日)。黄花崗起義紀念日(1911念4月27日、明治44年4月27日、黄興が黄花崗で義兵を起こして、督署を攻めた紀念日)
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# by Ttakarada | 2007-11-09 08:27  

 期待と批判


 ◆孫文に生じた対日観の二重性
 

 革命のさなか孫文は、幾度となく訪日し、永いときには2年数カ月にわたり滞在している。革命期間の三分の一を日本及び日本人とのかかわりの中で、期待と失望のときを費やしている。それは、ある意味で対日観の二重性を生じ、矛盾した言動とみられたこともある。
 
その間、財閥、政治家らの対支那利権に翻弄されたり、日本国内の政治状況に左右されたりしたこともその要因であり、もちろん支那の国内事情のなかでの大きな障害であった袁世凱の動向が日本の対支那政策にあたえた多大な影響と、アジアに対する遠大な志操や国策もおぼろげな日本の指導階級の見識不足がその混乱を助長させていた。

 孫文自身も現実の支配者、袁世凱の勢力および力の認識とともに、他方、中国鉄道督弁として、その計画遂行の先駆者としての理想追求の狭間に活路を捜し求めた時期があった。革命指導者に重要な現実認識と能力査定、そして将来の推考という平衡感覚は、つねに冷静な客観視がなければできないことだ。また革命の大義というべきものの裏付けも重要なことでもある。

 13歳から5年間にわたる西欧的環境での生活は、現在の東西価値混交とは違い相当のギャップとして、あるいは理解の端から感動感激として染み付いている。
 思春期の影響は、より一層アジアの混迷を際立たせ、その自覚のもと支那人孫文として、背景にある文明の違いと優位性を明確に唱え、アジア民族の奮起を促している。その一歩は列強によって分断されたアジアを、日本の力を梃子に再興しようとすることでした。

  しかし日本の近代化は東洋的観念から逸脱し、西欧の模倣こそがその目標とばかりに邁進し、維新の原動力だった列強への危機感をあえて衰弱するアジアに対して矛先を向けたのだ。その意味で西欧スタンダードというべき近代化の基準に対して、孫文は日本に繰り返しアジア基準の再考を促した。その意志は、現代にも当てはまる問題提起である。アジアの西欧に対する功利覇道的考えの懐疑をみれば、東西ダブル基準の明確化と調和を唱えた先見性でもある。
 
◆犬養毅宛の孫文書簡

 孫文は1923年11月に犬養毅宛の書簡を山田純三郎に託している。三日三晩を費やして作成した書簡は、妻、宋慶齢の助力によって幾度も読み返され、訂正され、孫文の対日意志の集大成となるべきものであった。
 山田の甥、佐藤慎一郎は未修正の原文を渡され、修正後の文章とともに翻訳している。
 山田は言う。
 孫さん最後の書簡は犬養さん宛のものだ。最後の書は船上で自分に託した『亜細亜復興会』、最後の演説は神戸の女学校での『大亜細亜主義』を唱えたものだ。全てが日本および日本人に向けられたものだ。
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 そして孫文は口癖のように

『あの明治維新を成し遂げ、西洋の列強との戦いに勝った日露戦争は亜細亜の抑圧され、虐げられた有色人種が日本をアジアの光明として迎えたものだ。私もそれに感動し、触発され革命を蜂起した。しかし、その日本はことごとく我が国の革命の障害となっている。日本には真の日本人がいなくなった』
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と嘆いていた。 
 
だが一方では期待をもっていた。日本の満州経営とロシアの南下について語った桂太郎や兄・山田良政との縁で革命に助力した後藤新平、命がけで孫文の上陸を扶けた頭山満翁と犬養毅、神戸造船所長の松方幸二郎、そして兄・良政をはじめとする朝野、在支那の同志たち。そんなアジアの中の日本を自覚した真の日本人がいなくなった。
 それは孫文の指摘を待つまでもなく、歴史の経過とともに衰退する人間の徳性資質そのものの問題でもあり民族を越えたアジアの行く末を暗示するものであった。

 識者、景嘉は清朝の知識人梁巨川の遺稿録でこう述べている。
 …世界で発生するあらゆる問題、国際間で起きるあらゆる問題、および一国、一家に生ずる一切の問題は、実は人の問題から切り離せないということである。
 そして人の問題とは、とくに東洋の伝統が主張する人格の問題がとりわけ重要である。人心、人格、信義の重要さを知り、とくに精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負と己を偽り相手に従うことの不可、強いて相手を従わせることの不可を、心の深奥な所で反省することである。…
 数百年にわたって満州族の清朝に支配された漢民族の嘆きか、反骨かととらえられなくもないが、事象の根幹に人間が介在するものであるなら、まず人格識見の涵養が重要だと説いている。

 西洋の覇道と比し、東洋の王道の優越性を唱えた孫文の意志である。しかも、感動と感激を通じて学び実践しなければならないと景嘉は続ける。
 もちろん孫文は革命の成就が日本の政策いかんにあると断定しているのではない。期待のあまり、その大局的なアジア観や、抑圧された民族から期待され増幅された救世主となった日本に、反面批判と警鐘として唱えたのだ。

 それは犬養に宛てた書簡にも読みとれる
…貴国の対支行動も、従来は列強の鼻息を仰いで、中国および亜細亜州の各民族を失望させていることは非常に失策でありました。
 このたび、先生が入閣されましたので、必ずや列強追従の政策をやめ、新たな旗印を樹て、亜細亜州の各民族が渇望している気持ちを慰めていただけるだろうと思います…。
 犬養さんに出した文章にはないが佐藤が山田から預かった原文にある文章を参考に記すと。

 もし、そのようなことになるならば、日本はその増加する人口を容れる拓殖の地がないということなどは、心配する必要などないでしょう。私は、南洋の島々および南アジアの各国では、必ずや日本をその救い主として歓迎することになるだろうことを知っています。
 もし日本がアジア民族を扶けることを志として、武力的な欧州帝国主義の動きに追従することを止めるならば、アジア民族は日本を敬慕し、崇拝しないということはないでしょう。

 最も重要で、列強の競争に関すること、最も激しいのは支那4億の人々です。列強の中にはこれを独占しようとした者があったのですが、他の強国に阻まれ、ついには支那分割を謀る者が現れるようになったのです。図らずも、たまたま、東亜の海の果てで立ち上がったため、その分割の謀も遂行することができませんでした。

 この時、支那4億の民とアジア各民族は、日本を救い主と見なさない者はなかったのです。しかしアジアの民衆の期待とは異なり、日本には遠大な志と高尚な政策はなく、ただ武力的な欧州の侵略的手段を知るだけで、ついには朝鮮を併合する挙に出て、アジア全域の人心を失うようになったのは、誠に惜しむべきことでもあります。
 『その心を得る者は、その民を得、その民を得る者は、その国を得る』といっています。そして、それを翻然として悟り、異民族を遇する度量と勇気がなければ…アジアの人心は必ずや赤露に向かって行くことでしょう…アジアには弱いものを救い、傾いているものを扶けようと、義によって言論を主張する国はないのです。だからして赤露に望みをかけざるを得ないのです。

 戦争について
 そもそも将来の世界戦争はと、言うものの多くは、必ず黄色人種と白色人種の戦いになるとか、あるいは欧州とアジアの戦争であるとか言っておりますが、私はあえて、それは違う。それは必ず公理(一般に公認される真理、道理)と強権の戦争であろうと断ずるものです。
 列強については(犬養書簡にない原文より)

 欧州においては、ロシア、ドイツが虐げられているものの中堅であり、英仏および米国は、あるいは横暴者の主流ということになりましょう。アジアにおいては、インド、支那が虐げられている中堅で、横暴者の主流は、また同じく英仏、米国であり、あるいは横暴者の同盟者となるか、あるいは中立の立場をとって、必ずしも虐げられているものの友人とならないことは、断言することができます(日本を暗示)。
 ただ日本は、まだ未知数の立場にあり、虐げられているものの友となるか、それとも虐げられているものの敵となるかは、先生が山本内閣において行うことができるか否かによって定まることと思います。
 このことがかなうなら、将来の世界戦争に準備しなければと説いている。

 ◆孫文が説く日本のアジア外交の指針

 佐藤慎一郎は、時節が流れようと孫文が説く日本のアジア外交の指針は、現代日本人が錯覚した歴史観では、到底答えが出ないとおもわれる問いに啓示として映るという。
 列強は支那をもって日本を制し、必ず日支親善は永久に期待できないようにさせ、しかも日本経済は必ずや再び発展することは難しくなることでしょう。欧州列強は、大戦以来すでに帝国主義を東亜に推行する実力はなくなりました。しかしながらその経済基盤が支那にあるものは、すでに非常に強固なものとなっています。

 それで、もっとも心配なことは、わが党の革命の成功は、彼らに不利をもたらすことを恐れているのです。
 列強の深謀遠慮は実に日本を目標としています。 だから色々な名目を作り出して、日本が彼らと一致した行動をとって、支那に対せざるを得ないように、させているのです。日本の支那における関係は、その利害はまさしく列強とは相反していることを知らないのです。およそ対支那政策で列強に有利なものは必ず日本に害があるものです。

 日本の致命的な政策的習慣を指摘して
 日本が事ごとに、みな列強の主張に従わざるを得ないのは、当初は孤立していて、しかも敵対することができないので、敢えて頭角を現して、列強と対抗して譲らないといった態度はとれなかったのですが、それが習慣となってあたかも当たり前の事だと思うようになったのです。今や時が移り、勢いが変わったのに、なお計画を変えることを知らないばかりか、一層、醜くなっており、ことごとに列強の片棒をかついでいます。支那の志士たちが、日本を痛恨に思うことが列強に対するよりもひどいのは、そういう理由なのです。
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 アジアの将来を推考して(草稿では)
 思うに支那革命がいったん成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータン等の諸国は必ずや、もとのように中国の藩屏として付属することを願うでしょう。しかも印度、アフガニスタン、アラブ、マライなどの諸民族は、必ず支那の後塵を歩み、欧州を離れて独立することになるでしょう。
 
…このようなことになると、欧州の帝国主義と、経済侵略は必ず失敗することになるでしょう…。ところが日本政府はこのことを察する事なく、これに引きずられて反対しているのは、自殺と何ら異なるところがないのです。
 もともと明治維新は、実に支那革命の前因であり、支那革命は実に日本の明治維新の後果であり、この二者は、もともと一貫したものなのです。 それによって東亜の復興を図ったならば、その利害は同じことなのです。

 日本はどうして欧州に追従し、我が国を嫌い、我が国を害するのでしょう。日本が国家万年、有道の長期基本計画のために、もし支那に革命の発生がなかったならば、日本は提唱してこれを誘導すべきであることは、ロシアが今日、ペルシャ、印度に対しているようなものです。
 従来、徹底的に自覚して、毅然決然として支那革命を助け、日本を東亜に立国するものとしての雄図を計ったことは、いまだかってありませんでした。これは独り支那のための計略ではなくして、日本のための計略でもあるのです。

 この書簡には日本の対アジア政策の曖昧さを指摘し、抑圧民族のおかれている状況に目を転じ、理解を促し、その結果、赤露に向かわせる理由を説明している。そこには、1906年(明治39)ロシア革命の領袖ゲルショニと牛込で行った会談とは異なり、孫文の対ロシア観の変化がみられる

 ◆孫文が描いた満州経営の展望


 ゲルショニが中国革命成功の暁にはロシアの革命を援助してほしいとの答えは「万里の長城以北は関知しない」ということだった。
 当時の孫文の意識の中には万里の長城以北は漢民族の勢力圏ではなく、対ロシアの間断地帯として日本に地域建設を委ねつつロシアの南下を押さえるといった考えがあった。歴史上、軍部の独走や満州建国という面が強調されているが、戦後の発掘資料や山田純三郎の証言にある武器や資金の援助と引き換えに三井財閥の森恪による買収計画や、下田歌子と会談での同様な話とは別に、孫文自身が当時描いていた極東アジア、満州地域の考え方は革命成功のための一過性の約束とは異なった日中提携をもとにしたアジアの将来展望であったはずだ。
 頭をもたげた日本の偏狭な権益主義は世界の中のアジアという観点を考慮することなく、支那の歴史上、希有な指導者の提言に耳を貸すこともなく、逆に誠実な心を終始、落胆させる政策をとった。

 近代のアジアは狭い範囲の思惑に一喜一憂し、恩讐まで積もった日中両国の分断を意図する西欧列強の画策に翻弄され、その影響を受けるアジアの混乱はいまもって続いているのが現状である。一時期の政策的失敗による衰えはあったにしても日中が胸襟を開いてアジアの大経綸を描けるとしたら「世界史上稀にみる一大勢力になるだろう」ことを孫文は予言している。

 それは後に述べる桂太郎との会談の一部を山田が語っていることでもわかる。
 当時は地政学的にも南下政策を唱え、民族感情からいっても「大鼻」(ダービー)といって好感情を抱いていない中で、なぜロシア寄りの考えを書簡で伝えようとしたのか、受け取り方によっては、犬養を縛り、自らを窮地に追い込む政策の披瀝は、まさに政治家としての孫文のロシアカードであり、ボロジンを代表とするロシアの対支那政策の効果とみることもできる。犬養ならずとも親露容共の考えをどのように判断したらいいか苦慮するだろう。

 それは以前、大正2年に来日したおり、神田青年会館における留学生の歓迎会の席上で、国際情勢を分析してこう述べている。
 「今はロシアと親善すると蒙古がやられてしまう。それでもさらにロシアに近づくと中国国内18省はやられてしまうだろう…」(国父全集3巻114頁)
 このように当時、袁世凱が結んだ中露協約や親露防日政策を批判している。

 書簡では続けてこう述べている。
 日本の立国の根本は、ソビエト主義とは同じではない。だからあえて承認することはできないのだから、といいますが、これは真に見識の狭い議論です。そもそもソビエト主義とは孔子のいわゆる『大同』なのです。

 孔子は、大いなる道が行われていたころには、天下は公となし、私するようなことはなかった。賢いものを選び、有能な人を用い、人は互いに信じあい、憎しみ合ったことはなかった。 老人は安らかに生涯を終えることができ、若者には十分活躍する場所があった。幼いものはすくすくと成長することができ、老いて妻もなく、また夫のないものも、幼いとき父がなかったり、年老いて子の亡い者も、不具廃疾のものも皆それぞれ生活して行くことができた。

 男には分に応じた職業はあるし、女には何れも配偶者があった。財貨は地に棄てられて粗末にするようなことはしないが、必ずしも自分のためにだけ力を用いるようなこともなかった…。したがって策謀する必要もなければ、泥棒や乱賊などの横行する余地もなかった。だから表通りの戸締まりをしておく必要がなかった。
 このような社会を大同といっています。だからロシア立国の主義は、これほどのものでしかないのです。なんで怖るべきことがありましょう…。

 歴史を推考し先見としてこう唱える
 …日本を排斥する強国がロシアをその先駆けとして利用することになれば、独り日本が危ないだけではなく、東亜もまた、それにつれて平和な日がないようになるでしょう。そうすれば、公理と強権の戦いは、もしかしたら、ついには日本では黄色人種と白色人種との戦争と変化するようになるかもしれないのです。

 是非とも知っておかなくてはならないことは、欧州大戦後の世界の大勢は一変したばかりではなしに、人の思想もまたそのために一変したのです。日本の外交方針も必ずこれに順応して改革してこそ、はじめて世界における地位をよく保存することができるでしょう。
 
さもなくば、ドイツの仕損じたことを、必ずまた踏むことになるでしょう。試みにご覧なさい。ホノルルの軍事配置、シンガポールの設備を。これは誰を目標としているのでしょうか。事態はすでにここまで来ているのです。
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 日本が、なおもロシアを与国としないならば、ゆくゆくは必ず水陸両面の挟撃をうけるでしょう。英米の海軍はすでに日本より強いこと数倍です……。孤立している日本が海陸の強い隣国に当たったとしても、どうして僥倖を期待することができるでしょうか。だから親露は日本自存の一つの道なのです。

 最後に、こう結んでいる
 この策は、実に日本が国威を発揚し、世界を左右する遠大な計画であり、興廃存亡のかかわるところなのです。これは日本が欧州対戦の初め、すでにその赴くところを誤り、世界の盟主となる良機を失ったのです。一度誤っているのに、どうして二度も誤ることが許されるでしょうか。ただ、先生(犬養)が詳細にお考えくださって、速やかに対処されるようお願い申し上げるのみです。
 
       民国12年(大正12年)11月16日 広州にて
 孫文から託された書簡は山田によって直接、犬養に届けられている。
 翌、大正13年11月、広東へ帰ろうとした山田に孫文から連絡が入る。
 「私が犬養さんに送った手紙の返事がまだ来ていない。それで犬養さんの真意を確認するため日本へ行くから、君も日本で待っていてくれ」
 孫文は北京に行く途中、日本に立ち寄っている。書簡は支那一国にとらわれないアジアを大局的に見た経綸というべきものである。しかも、日本に対する期待と批判は、民族を越え、死をいとわず協力した日本人同志の心情を背にした警鐘であり、真の日本人にたいする懐かしみが表されている。
 そこには革命家としての孫文の無垢な純情の吐露があり、人間、孫文としての忠恕あふれる熱情でもある。
 

◆西洋覇道の犬か、あるいは東洋王道の干城か
 

11月18日には神戸において『大アジア主義』の演説を行っている。孫文はこのなかで犬養宛に書簡と同様に、日本政府に痛切な猛省をうながし、日中提携によるアジアの復興を訴えている。

 「今後、日本は世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道を守る干城となるか、日本民族として慎重に考慮すべきである」
 “我、何人(なにびと)ぞ”と、果てどもない自己の探求は、まるで逍遥のごとくさまよい続ける日本の国家目標はときに選択するパートナーを間違え、おぼろげな目標に加え将来に取り返しのつかない禍根を残し、近隣諸国の嘲笑と期待していた日本に対しての落胆から怨嗟の念を抱かせている。

 近年のアジア金融危機に際しても緊急の助力を求めるタイ国に対して、煮え切らない態度を示したばかりか、切羽詰まったタイ国は国際通貨基金に条件付きの支援をもとめてが国際通貨基金(IMF)はその資金の拠出を金満日本に押し付けている。

 アジアの中の国として歴史的関係も深く、日系企業の進出などアジア共生のパートナートとなるべき国に対する姿勢はタイ国およびその民衆にしてアジアならざる国として映ったに違いない。フィリッピンのアキノ大統領、インドネシアのスハルト大統領、ミャンマーのスーチー女史、マレーシアのマハティール首相、台湾の李登輝総統といった指導者たちは日本および日本人に何を語りかけているか耳を澄まして傾聴するべきだろう。

 援助を請うために迎合したりはしない。あるいは戦勝気分で恫喝や保証を求めてはいない。
 シンガポールのリークワンユー元首相は米国訪問の際、日本の姿勢を咎める大統領にむかって「日本をそう悪く言わないでください。日本はアジアの兄貴分です」と、堂々とアジア人としての見解を述べている。

 まるで遠大な計画もないまま商国家として栄えたカルタゴのように国家保全を傭兵や財貨によって賄った末路は歴史の実証でもある。
 あるいは勧学文まで出して学問を奨励し朱子学をはじめ多くの学派、知識人を輩出した中国の宗でも明の攻略にひとたまりもなかった。それは学問奨励の掲げた目的は「書中、黄金の部屋あり」「書中、女あり」と、学問をして地位を得れば金と女は自由になるといったような「食、色、財」の欲望を学問の目的として鼓舞したからにほかならない。

 経済や知識は進めば進むほど突き当たり、詰まるようだ。しかし、考えて見ればアジアの思考概念は「循環」と「無」というように無限の繰り返しによって作られている。それは人間を自然界の中で卑小な存在として認識することによって出発し、終結するように、西洋からすれば芒洋として意志を持たない未開に映るかもしれない。

 だか、そこには神の啓示と称して世界を支配する欲望もなければ、再現のない拡大主義も存在しない。天地自然の中に一粒のごとく存在する人間たちの他愛のない作為によって生ずる一過性の現象を鳥瞰して自ずから訪れるであろう結果を歴史の知恵として理解しつつ濁流に遊び身を任せているのだ。
 
それは空虚な妄動や群行群止する民の様相とは異なり、自らの「分」の存在と役割を認めた「たおやかなアジアの矜持」である。孫文ルネッサンスというべきアジアの復興運動は、まさにその矜持の存在を確認することでもあったのです。
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【ミニ解説】
 辛亥革命から十数年、中国はまず袁世凱の支配下にあった。それから北京を制した呉佩孚、段祺瑞、馮玉祥、張作霖ら軍閥の手中にあった。孫文といえば、広州を中心に細々と革命拠点を維持していたにすぎない。

 国民党は孫文の手を離れて北京政府の議会の一翼を担っていたもののそれは形だけのものだった。孫文の国民党は1919年、上海で「中国国民党」に改組され、20年代に入ってようやく民衆の支持を得た革命政党に育つことになる。
 一方、帝政ロシアを倒し革命政権の誕生させたソ連は中国国民党に急接近、1921年からコミンテルンのメンバーを送り込み、孫文に連ソ容共政策を採らせることに成功する。

 孫文は革命における軍事的側面を重視するようになり、1923年に初めて軍事委員会が置かれ、黄埔軍管学校で軍人の養成が始まった。孫文は北伐を計画する一方で、北京政府との話し合いによる和解に最後まで固執し、1924年、段祺瑞の北京政府との話し合いを目指して、上海、神戸を経由して北京に赴く。
 
有名な日中が連携して西洋と対決しようという「大アジア主義」の講演はその際、神戸女学院で行われた。
 北京では段祺瑞とも会談は実現せず、逆に末期がんに冒されていることが判明し、入院後3カ月の3月12日、60歳の生涯を終えた。
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# by Ttakarada | 2007-11-06 12:27  

砂的民衆の潤い

 ◆すべて自らに同化させてしまう中国の民
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左端 北一輝  右端 陳基美

 山田は支那の民衆についてこう語っている。
 このような民族だ。握ってもこぼれる。強く握れば握るほど指の間から落ちてしまう。風に乗りどこへでも飛んで行く。だが、潤いがあれば両手に盛ることができる。

 佐藤も民衆の中で得た体験をとおして同様な意味を語っている。
 食、色、財の本性にしたがって天地自然に順応している。例え人肉を食そうが、財によって押し潰されようが、男女快楽の技巧が極まろうが、突き当たることはない。天地の循環の理(ことわり)に添って生きている。
 それはまるで悠久の流れの水の性質に似て、清濁を問わず、方円の形式にとらわれず、しかも人情という潤いの一滴を感知できる包容力をもち、あるときは権力の船を大河という民衆に浮かべ、ときには激流となりいとも容易に転覆させることもできる力をもっている。支配者が変わろうが決して滅びる民族ではない。そしてなによりも人情の意味を知っている。

 しかし、と続く
 この特性は柔軟でしかも粘り強い。どんな外来の侵入者が来ようが、すべて自らに同化させてしまう。とても弱いが力の真理を知っている。
 ジンギスカン率いた元もない、清朝も消えた。
 満州の長老が言っていた。「はやく日本は負けて帰った方がいい。そうしないと日本そのものが無くなってしまう」(新京の魔窟 大観園の親分)
 覇道を抱き、王道を謳って異民族の中を闊歩した四角四面の日本人はどのように映ったのだろうか。

 ◆ただ姓が易わっただけだ  

日本の敗戦が決まった日の朝、城内には青天白日旗が翻っていた。聞いてみると五つの旗を常に用意していたという。日の丸、満州国旗、五星国旗、ソ連国旗、そして青天白日旗。見ると青天白日旗がいちばん高価な布で作ってあった。
 なぜかと聞いてみると
 『張学良になったとき、少しは長く続くだろうと丈夫な生地で作った』と、胸には国民党のバッチがついていた。昨日まで日満一徳万歳を唱えていた民衆とは思えなかった。 
 『ただ姓が易わっただけだ。自分たちの生活は今まで通りだょ』と、まるで淡々と時を楽しんでいるかのようであった。
 土壇場においてもこの様相である。

 それに比べ日本人の打ちひしがれ、惨憺たる様子は、民族の違いとはいえ器の大きさを見せつけられるものだ。
 開拓民を取り残し電話線まで切断して我先に逃げ出す高級軍人、高級官僚。日本人婦女子を騙して集め、集団で売り飛ばす日本人会々長。

 帰国を急ぐ日本人を、さも当然のごとく助ける中国人たち。なかには日本人救護にと馬車百両に食料を満載して届けた中国人もいる。
 その後、この人は敵国を助けた罪で銃殺されたという。危ないから逃げなさいと米国に促されたが、この老大人はこう言ってその地から離れようとしなかった。
「私は人間として当然なことをしたまでだ。困っている人に民族の別はない。お互いさまだ。悪いことをしたのではない。目の前で苦しんでいる人間を無条件で助けたのだ。私は大丈夫だ」

 佐藤は涙ながらに回顧する。
 名を名乗るわけでもなく、名利を得たいがために行ったものでもない。命がけで助けたのだ。
 しかも、拘束された後も堂々とした大人の風格を漂わせていたという。無条件の貢献を生んだ大人(たいじん)の心には、日本の官吏、軍人民間人を問わず、誠の心をもった真の日本人との交流の思い出が脳裏をよぎったに違いない。
 国家民族を超越した人と人との交流の姿を自らの命に賭けて教えてくれた。
 語り継がれる数々の義行だが、どのように継承するかが大切だ。
 生活のためと目先の利益や名誉に、ついつい翻弄される現代人の鑑となれば大人も本望だ。 名を残し顕彰することだけでは大人の徳業には馴染まない。

 それよりも、それぞれ現代に生きるものが大陸の地に建設した満州国という国家存在の史実を認め、功罪の有無を問うこととは別に、平時なら居留民を守る立場にある軍人、官僚に見捨てられ、打ちひしがれて日本に帰還する土壇場の状況を想定して己の人生と心に問いかけながら将来に行動することだ。
 日本の有史以来はじめての体験だったが、土壇場における日本人の姿として忘れてはならないことだ。
 大人の名は確か、王荊山さんという人だ。



王荊山 遺子と孫
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# by Ttakarada | 2007-11-05 13:54  

亜細亜的大人 孫文


革命の事績は後世の歴史家や政治家によって作られる。
 学者および知識人と称せられる人達によって、何年何月といった年次をなぞることに無謬を論証し、月日が違えば記録や記憶そのものの信憑性が疑われるといったことにもなる。
 あるいは、体制の正当性を唱えるがあまり作為的に変更、創作、解釈が行われることもある。ひどい例では事実そのものが消去され、虚飾に満ちた歴史が一人歩きする場合がある。
 
 孫文についても例外ではない。それは革命の目的となった理想に向かう志操を主な観点として見なければ本質は浮かんでこないということだ。
 
◆革命は九十九回失敗しても  

幼少にあった孫文を感動せしめた事件は、洪秀全を頭目とした太平天国の乱であり、それを民族の問題として説いて聞かせた長老の言葉がその後の精神的躍動の出発点であった。年齢を追うごとに集積される体験的習得は、他人の観察にさまざまな評論を生むことにもなる。

 『本立って道生まれる』という言葉がある。
 その意味は知識、技術を学ぶ以前にまず心身に浸透しなければならない人間探求というべ基盤作りが前提にあってこそその後に学ぶことが活きるということである。ややもすれば人間の頭に入った知識や技術が人間の欲望の為のみに使われるものではなく、自然界に現れる森羅万象を感動や感激をもって心身に受納できる箱が「本」というべきものでしょう。

 そのひとつに幼少時に習得すべきといわれる『小学』という学問がある。
 万物の中での人間生存の部分的役割りを、躾(習慣性)や道徳といった動物とは異なる人間性を自得する学問であり、他から教授されることにより長幼の別や、自分と他人の存在を認知することにもなり、そのことによって自分の役割を知り、社会性の芽生えとともに理想と現実の狭間から問題意識の高まりを可能にして、以後の行動の原点を確立する。

 佐藤は孫文から学んだ事として次のように語っている。
 難解な問題より、無垢な良心からものごとを観察して、なにが本当の問題なのか見つけなければならない。まず好きになれ。そして楽しくなくては学問ではなく行動もない」と言い、しかも「その行動の表れは、歴史の事象を分析したり、整えたりすることによって歴史を知識としてのみ分かるといった文献学や口耳四寸の錯覚した学問ではなく、事象の発生に必要な精神や思考の原点である『万人が心の秘奥で理解し、だれでも生まれもって保持している篤心をつねに錬磨する学問』を、行動として実践し実証することでもある
 孫文の革命は『小学』によって育まれた人間のあるべき姿を見つめ直し、放たれた良心に覚醒を促し、幼少のような無垢な感動、感激の存在を再度確認すべく起こした行動とみるべきだろう。
 
歴史上、まれにみる純粋さが表現され、そこには老獪さや、したたかな計略もありません。孫文は困難を目前にして山田に語りかけている。
 革命は九十九回失敗しても、一回成功すればいいんだょ。失敗は恐れてはいけない。至誠は必ず通ずるものだ。明治維新と日露戦争の勝利はアジア復興の前段階であり、支那の革命はその結果となるものだ。

 俗世でいう地位、名誉、権力、財力の追求はそこにはない。孫文は無頼漢を組伏せる体力もなければ、軍略戦闘の専門家でもなければ詐術もない。集積された名声はあるが、針小棒大な噂話として宣伝されたにしても革命頭領にはなれまい。

 それならばなぜ革命蜂起が可能だったのか。
 孫文は、自らの行動によってその答えを明確に表している。それは、だれでも理解可能な行動を、だれでもできることとして具体的に見せただけなのである。
 革命そのものを人間(人格)の問題として捉え、純粋にそれを追い求めたことは、異なる民族にも超越した共感となり、東洋の王道の実践者として多くの同志が身を靖献したのである。確かに、歴史の分岐点としての「時」と、日本から起こった改革に連動する「機会」や、人心掌握の「能力」と、アジア復興の「大局的意図」と、支那の権益を確保しようと日本との諸刃の剣というべき力の活用の「戦略」が革命の成功要素にあげるものもいるだろう。
 しかし、それだけでは公(おおやけ)を説いての革命は成就しない。

 しかも、支那における何千年にわたっての政変は、一時の賛歌を得た支配者の末路を栄華没落の写し絵として、民衆の権力の見方や順応方法として、したたかに眺めることが生存の方便として染み付いているのである。

 そのために民衆は『秘めた人情』といった心の潤いに生きる糧を求め、地縁、血縁、職縁に生活保全のもとを置きながら支配者と共生したのである。権力者や縁の異なるものに対しては虚偽と作戯をいとも自然に醸し出せるしたたかさをもつ大衆だからこそ、たとえ異なる民族であろうが人情を認めたものには誠心誠意、応え交歓できる社会を渇望したのだ。
 
◆天恵の潤い  

孫文は呼称、革命家である以前に『天恵の潤い』でもあったのである。終始、孫文の側近として同行した山田がその人柄を述べている。
 1924年 12月25日の深夜だった。神戸のオリエントホテルに頭山満さんたちと泊まった夜だった。夜中に廊下をウロウロしている不審な人物がいたので、だれかと思ったら孫さんだった。
「如何したのですか」と聞いてみたら 

「頭山さんはベットに不慣れだろう。もしもベットから落ちて怪我でもしないだろうか。心配だ」と、人が寝静まった廊下を行ったり来りしていた。
 しかも食事といえば、日本食が苦手な孫さんだが頭山さんに合わせて和食を共にしていた。あの孫文さんがだ。だから皆、孫さんには参ったのだ。

 山田はお金にきれいな孫文についてもこう言っている。
日本に亡命して頭山さんの隣の貝妻邸に居を置いていたころだった。日本の警察が日常行動を監視していた。
 孫さんの荷物は大きな柳行李がひとつあった。
 あるとき開けて見ると本がぎっしり入っていた。中には金銭の出し入れをきちっと記録したノートもあった。しかも孫さんはお金には絶対触れることがなかった。地位が昇れば金(賄賂)を懐に入れる人間ばかりだが孫さんは決してそんなことをしなかった。革命資金は公(おおやけ)の為の資金ということが孫さんの考えだ。だから民族を越え世界中から革命資金が寄せられたのだ。
 
加えて笑い話のようにこう付け加えた。
 孫文先生の亡くなった日のことだ。遺言を残さなくてはならないだろう、ということになり孫文先生の病室の隣で話し合うことになった
 そのとき二通の遺言がつくられた。一つは「余は国民党を遺す…」といったもの。もう一つは家族に宛てたものだ。その中で「自宅を遺す…」と読み上げられた途端、皆から笑いがもれた。なかには涙顔で笑っているものもいた。皆はその上海の家がいくつもの抵当に入っていることを知っているので、そんなものを遺されてもしょうがない、というので孫さんらしい話だというのである。 c0142134_1213643.jpg

 そもそも遺言そのものは書ける状態ではなかった。残された記録では慶齢夫人が抱き起こして云々とはあるが、そんな状態ではない。
 事実、そばにいた自分が知っている。 サイン(自署)はどうするか、ということになり長男の孫科が代筆することになった。孫科は「親父の字は癖があるからなぁ」と、幾度となく練習して“孫文”と署名している。
 
ところが翌日、新聞に発表された遺言は三通になっていた。その一通が『ソビエト革命同志諸君…』とあるものだ。
 当時、コミンテルンの代表として国民党の顧問として第一次国共合作に重要な役割を果たしたミハイルMボロジンと深い交流があり影響下にあった汪精衛が出したものだ。
 しかし、遺言は重要なものだし、だれがどんな意図で書かれたかは後の問題だ。その後の国共内戦を考えれば孫文の余命を計って練られたことは容易に推察できることだし事実だ。たとえ歴史がどのように評価し、あるいはそれが事実だとして定着しようが真実はひとつだ。裏の歴史ではない。真実の歴史だ。

 支那の数千年の歴史の中で刮目すべきは、孫文先生は潔癖だったということだ。名利に恬淡だということだ。西洋列強を追い払い、アジアの再興を願った孫文先生は施政の方法論ではなく指導者のもつ理念を発したのだ。我田引水な忖度ではあるが、そのことについていえば国共両者の遺言の活用方法には意味はある。

 大事なことはこの理念を忘れたことが今までのアジアの衰亡の原因でもあり、この精神を備えるものだけが再興を担える資格があるといっているんだ。
 孫文思想といわれるものは、そう難しいものではない。 公、私の分別と、正しいことへの当たり前な勇気、そしてアジアの安定と世界の平和。そのために日中提携して行こう、ということだ。遺言のことは蒋介石も知っている
 
佐藤は伯父から聞いた話として、台湾の国民党重臣に遺言にかかわる真実を伝えている。山田は一人歩きをした遺言についてこう語っている。

「孫文の精神が民衆のために活かされているなら、だれが作ろうが問題ではない」
また、

「孫文の正統を掲げられなければ民衆をまとめられないのなら大いに活用すればいいし、死して尚、その存在を民衆が認めている証左であり、諸外国がみとめる中国の理想的指導者像である」とも語っている。
 孫文の写真好きについても述べている。


「香港へ向かう船上でのことだった。“山田君、長い間日本を離れているとご両親は心配していることだろうから一緒に写真を撮って送ってさしあげよう”と、甲板に上がったら他に乗船している同志が集まって撮ったことがある。たしかデンバー号だった。みんないい顔をしている。」
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そして…

「最後の船旅で揮毫をお願いした時のことだった。 『革命ならすぐにやれと言われればできるが字を書くのは苦手だなぁ』と、いいながら書いたものが、先生の絶筆になった『亜細亜復興会』だ。
そのとき孫さんは右手で『ストマックが痛い』と腹を押さえた。自分は “孫さんストマックは逆ですよ ”と言ったら『そうか…』といって黙っていた。孫さんは医者だが体を治す医者じゃない。天下を治す名医なんだ」

 佐藤に語るときの山田は記憶をたどりながら孫文との思い出に浸っている。とき折、瞳は潤いを増し虚空をさまよっている。
 それは猛々しい革命家の姿ではない。兄、良政と共に挺身した孫文への回顧とともに、師父に抱かれ育まれた志操の遠大さに、我が身をどのように兄と同様に無条件に靖献できるかを巡らしている弟、純三郎の姿である。
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 靖献(せいけん)
   心安らかに身を捧げる



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【ミニ解説】 孫文の遺言
 余、力を国民革命に致することおよそ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあった。40年の経験の結果、わかったことは、この目的を達するにはまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、共同して奮闘せねばならないということである。
 現在、革命はなお未だ成功していない。わが同志は、余の著した『建国方略』「建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続いて努力し、その目的の貫徹に努めねばならぬ。最近われわれが主張している国民会議を開き、また不平等条約を廃除することは、できるだけ早い時期にその実現を期さねばならないことである。(要訳)
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# by Ttakarada | 2007-11-04 12:03  

責は自らに問う


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 海峡に対峙する両雄の鎮まりを招くことであったはずの山田純三郎の行動は直前になって中止となる。アジアの安定が世界の平和を招来するであろう大事の直前での挫折は、佐藤慎一郎の悔しさにも増して山田の慚愧でもあった。
 たとえごく近い縁から生じた障害であっても超越した行動をとろうと思えば可能であった。且つ、押し通す力は山田にはある。

 しかし、山田の決断は瞬時にくだされた。それはたとえ成功したとしても山田の心中の秘奥に存在する至誠に恥じることであり、また自らに課した到達点である亡き孫文への許されぬ醜態でもあった。それは縁者の入国手続きから起こった。

「いま飛行場の入管で調べられています」
 調べられているのは縁者の在職する某商社の暗号文を所持していたためである。

「内容は…」
 報告する者も言いよどんだ

「実は…」
 山田は言葉を詰まらせる使いの者を直視して尋ねた。

「すべてを話してほしい」

「貿易商社が日本の本社と連絡用に作成した暗号文が見つかったのです」

「それがどんな問題なのだ」

「暗号文の内容が問題です。もし我が国で総統が亡くなった場合、中共が攻撃してきた場合、騒乱が起こった場合、などについて我が国駐在より日本本社に打電する暗号文です。しかもその紙片を口中に飲み込んだという情報もあります」

 大陸進攻を掲げ戒厳令を布く国情では諜報行為といっても変わりはない行動である。しかも日本の大手某商社の駐台責任者の行為である。
 商行為でも人情に第一義の信頼性を置く民情であり、国父、孫文のもと総統との革命家同志の間柄である山田の縁者を駐在責任者におく商社の魂胆は、物言わぬ重圧として交渉相手に浸透したはずだ。山田の矜持を理解しようとせず、商行為による財利獲得のみを目的とする海外の現地法人の姿は、混乱の過ぎ去らないアジアの商業覇道として頭をもたげてきた。

 商行為は物流とともに人情の潤いを添え、それぞれが暗黙の了解事項として成立させることが交易業務の円滑さを図るためには必要なことでもある。『賄賂』を称して『人情を贈る』といった民族習慣になっている場合でも、円滑化のための知恵は、財を得るための「才」を認め、高める効用にもなるだろう。

 『逢場作戯』(その場その時々で相手に合わせて演技する)や、詐術はここでは問うまい。あるいは厚黒学や貨殖伝の応用もあるだろう。しかし、大前提となることは行動圏の市場に対する最低限の掟の順守がなければならない。とくに外国交易を行う場合、当事国の歴史、民情、政治情勢に一定の理解と涵養がなければ単なる謀略利得の行為と化してしまうだろう。
 語学が堪能だ、人脈がある、といったことのみを商行為の有利性として海外に派遣する国内における責任者の欠落した観点は、アジアの歴史に繰り返される島国日本の致命的欠陥でもある。
 
商社としてはつねに行われていたことが発覚したともいえるが、まるで時を計ったかのように山田の行動を妨げたと同時に、表面の静けさとは反比例するかのように胸中の秘めていた純情な琴線に触れてしまったのである。

 山田とて三井の社員として上海で満州の石炭を売っていたことがある。その経験からして商売意識の許容する範囲の理解は深い。それゆえ逸脱した縁者の行為は、自らの責めとして恥じるとともに、軍の袖に隠れ満蒙、支那の利権の買収、収奪を企て、孫文の革命を終始疎んじた日本人そのものを顧みて無言の怒りと悲しみを覚えたのだ。

 如何なる民族といえども色、食、財の欲望を満たすための究極の手段である戦闘行為を除いては民族特有の商風を醸し出してはいる。駆け引きや情報収集と称する諜報、謀略も当然あるだろう。

 なかには相手を利敵の対象としてみる一団もあれば、財利の循環を前提とした同種同業の育成や活用を商い気質として、天地の空間でダイナミックに存在し、滅亡することのない悠久の歴史の中に存在している民族もある。
 山田は「商」の分際を認識し、ときに自身(商人)の存在を直視し、その存在を感謝しつつ、しかも交易を臨機の潤いにしなければ、商が万物の用を成すという存在意義から逸脱し、害や罪に化してしまうことを歴史の検証として理解している。

 貿易商人の堕落は、アジアの大志を抱いて孫文と共に苦闘した継承すべき辛亥革命の精神的変質でもあり、人間の劣化という観点でみた山田の憂いと言い知れぬ寂しさは、自らの途を断ち、辞して発芽の来復を待つといった境地に、自らを追い込むものであった。

それは当時の日本及び日本人としての無条件の行為に根底にある貪りを自己で規制する という、覚悟に似た矜持であった。それは革命成功の成否より優先されるべきという山田の兄である良政の遺訓でもあり、異民族の中にあって慎重に留意しなければならない普遍的意思の行動具現でもあった。
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# by Ttakarada | 2007-11-02 18:32  

幻の毛沢東、蒋介石会談



滞在から数日して山田が真剣な顔で佐藤に伝える。
「じつは蒋さんの依頼で大陸へ行く」

「大陸って、中共ですか」

「毛沢東主席に会う。慎ちゃんもいっしょだ」
 佐藤は驚いた。蒋介石は常々大陸進攻を唱えている。それが毛沢東主席と…
 しかも伯父さんが…
 山田はあえて事務的に指示をあたえる。

「廖承志さんを通じて毛主席には伝えてある。廖さんの母親が上海に迎えにくることになっている」
 廖承志の父、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は孫文の革命に山田とともに奔走した革命の同志である。その息子の廖承志は、子供のころに山田の腕であやされていた関係である。
 後年、廖承志は中日友好協会の代表として来日すると、まずはさておき山田の家を訪問している。こんな逸話も残っている。
 
大阪万博のおり、会場には中華人民共和国の旗、中華民国々旗である青天白日旗がひるがえっていた。それを知った廖承志は青天白日旗を降ろせという。ある識者はいう。
 そもそも青天白日旗は台湾の旗ではない。もともと台湾に国旗などはない。青天白日旗は中華民国を創設した孫文先生が認めた旗だ。あなたの父親は革命の志士として亡くなったとき盛大な葬式が挙行された。
 その柩は多くの人々の犠牲によって成立した中華民国の青天白日旗に覆われていた。 
 あなたの父廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民の悲しみのなか、国家と家族の安寧を願って旅立ったのだ。
 その国旗に覆われた柩にすがりついて泣いていたのは君ではなかったか。

 そんなエピソードではあるが、政治的立場と普遍的な人情は分別できる人間である。
 その廖承志が大役を引き受けたのである。山田を迎えにくる母親の廖香凝も中華人民共和国の要人である。双方、国際的事情もあろう。複雑に入り組んだ国内事情もあることは推察できる。

 だが、ともに国父と仰ぎ、けっして侵すことのできない孫文の存在を想起するなら『小異を残して大同につく』といった中華民族特有の思考を活用する大義も生ずるはずだ。
 幼稚で騒がしい知識人や、歴史を錯覚した政治家の類いをしたたかに排除した両国民衆は過去の恩讐や民族を越えてアジアの再興を願った孫文の大経綸に賛同するだろう。
 それはアジア諸国の期待でもあり、もちろん日本も例外ではない。   

 父の柩に涙したものは体制に翻弄された民衆の意志であり、廖承志の心そのものであろう。履歴を積み、縁あって両岸に対峙する毛主席、蒋総統にしても冷静にして自らに立ち戻ったときリーダーにしか垣間見ることのできない境地が存在するはずだ。
 廖承志はその意味を知っている数少ない幹部の一人でもある。毛沢東も蒋介石も解り得る人物である。分析、解析、思惑、作為は仲介当事者である山田にはない。まず毛主席に会って、顔を観て、声を聞いて話はそれからだ。

 死地を越え、孫文を心中に抱いた山田に気負いはない。緊張するのは両巨頭のほうだろう。
 山田は大事を前にして、郷里弘前の思い出や兄、良政に随うことによって生じた孫文との出会と革命の回顧、そして蒋介石との縁、そしてこのたびの行動を想い起してみた。孫文先生や兄、良政ならどうするだろう。

 1911年10月10日 革命が武昌で成功を収めた日、アメリカにいた孫文は急遽、帰国の準備を整え、上海にいた山田に打電してきた。

「横浜を通過して帰国したいから日本政府に了解を取ってほしい」
 山田は犬養毅に依頼したが日本政府は拒否。やむなく大西洋を迂回して香港に到着したのは12月21日だった。山田は宮崎滔天、胡漢民、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)とともに香港に迎えに行く。陸路北上は危険だから広東で様子を見るように勧めるが孫文は上海に向かうという。その上海に向かう船上でのことである。

「山田君、資金を作ってくれ」
 思い立つとせっかちと思われる指示のはやい孫文である。

「幾らぐらいですか」

「多ければ多いほどよい。一千万でも二千万でもいい」
 明治時代の一千万、山田にとっては見たこともない夢のような金額である。

「私にそんな大金は用意できない。無理です」
 いくら革命に必要だとしても一介の満鉄の職員にはどだい無理な話だと端からあきらめる山田に孫文は毅然とした姿勢で言った。

「たかが金の問題ではないか。しかもここは船の中だ。君はまだ何一つやってもみないででできないというのは、いかん。君のような考えでは、革命はおろか、一般の仕事だって成功するはずはない。上海に着いたら三井のマネージャーに相談しなさい。革命は何事も躊躇してはいけない」

 山田は静かに厳しく諭された孫文の言葉を反復した。
 こんなこともあった。中華民国臨時大総統に就任した孫文が南京にむかう車中のことである。当時、国旗が制定されていなかったので末永節は日の丸の小旗をたくさん抱えて同乗の皆に配った。

 豪気な末永は「孫さん万歳、染丸万歳」と孫文の頭を祓う格好をしながら繰り返した。車中は中国人も日本人も「孫さん万歳」の声で埋め尽くされた。
 頭山満、犬養毅とともに国境を越えた行動力と胆識をもった末永の豪気は、孫文をして民族融和の必要性を見たに違いない。 c0142134_21491893.jpg

 余談だが革命初期は、運動会で使うといって日本でつくらせたのが革命党の旗である。末永節は今の福岡にあった頭山満主宰の筑前玄洋社出身で頭脳明晰で豪胆な人物で、幕末に来航した黒船に乗り付け日本刀で船腹に切りつけたが歯がたたない。ひるがえって意識転換できる開明的なところがある。ふだんは褌もつけず素っ裸で庭掃除をするような豪傑でもある。臨時大総統をつかまえて「染丸万歳」とは末永らしいエピソードである。
 ちなみに染丸とは日本に亡命中知り合った女性である。

 南京臨時政府が成立し、国号は「中華民国」と宣言されたその翌日のことである。祝宴のドンチヤン騒ぎで今までの労苦を吹き飛ばしているさなか孫文が山田に言った。

「山田君、君はこれから上海三井の藤瀬支店長のところへ行ってください」
 孫文は三井と軍資金借用の件で約束をしていた。山田は祝宴の酒が手伝ったのか軽口をついた。

「商人の話なんか、そうきっちりとは、いかんですよ」

「山田君、君はまたそんなことをいう。藤瀬さんは一週間といっただろう。約束は約束だ。まだ本店から返事がきていないならそれでいい。できる、できないは別問題だ」

 以前、上海へ向かう船上で諭された時と同じように、山田は約束の重要さと積極的な行動について教えられている。

 孫文は山田の兄、良政との義侠の縁とはいえ純三郎をわが子のように慈しみ、あるときは叱り、又、あるときは激励しつつ共に分かち合った革命成功への感激と感動の体験を積んでいる。孫文が山田の父に贈った『若吾父』(吾が父の若(ごと)し)という感謝の書はいかに山田兄弟とのかかわりが誠実な関係であったかを表わしている。

 その関係からして確かに、今度の毛沢東、蒋介石交流の仲介に山田は最適な人材であろう。どちらに与する利なく、まして施して誇るような心地はない。抱く心はアジア諸民族が提携することによって平和の安定を確固たるものと希求した孫文の志操そのものの具体化であり献身である。

 あの日、宋慶齢夫人に促され「山田さんお願いします」と、ガーゼで孫文の口元に注いだ水は孫文の意志継承の神聖なる伝達であり、自らの生涯を真の日中友誼に奮迅する誓いでもあった。こぼれ落ちる涙は孫文の頬につたわり、まるで孫文のうれし涙のようであった。

 生涯の大部分を理想に燃える革命家として費やし、一時として休まることのなかった心身の躍動が、独りの孫逸山として己を探し求めた結果の答えとして、魂の継承を山田が受納する瞬間でもあった。
 
 それは革命精神の継続性だけではなく、終始行動を共にした孫逸山そのものの気風の浸透であり、むしろ悲しみの涙ではなくアジア王道である桃李の地への旅の潤いとして降りそそいだ。それは民族を越えた孫文の普遍なる精神が結実した瞬間でもあった。
 師父の死は山田にとって新たな革命の出発でもあった。それは支配者の交代といった功利に基づく覇道ではなく、あくまで東洋的諦観による王道の実践であり、遺志の継承であった。
 毛沢東、蒋介石仲介という大業に臨む山田の沈着さは、まさに郷里津軽で仰ぎ見た岩木山の風格であったと佐藤はいう。


  「桃李」   桃李もの言わず、下おのずから路を成す。
  人も徳が高ければ自然と人々が集まって付き従う(講談社編)
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# by Ttakarada | 2007-11-01 21:53  

前章参考として



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終始叔父純三郎に同行し、多くの革命秘録を聴取している佐藤慎一郎氏
詳しくは以下に

http://greendoor2.exblog.jp/tb/6955855

文中、満州工作は孫文と桂太郎の約束であった、「満州は日本の手でパラダイスを築いて欲しい、そしてロシアの南下を抑え、叶うなら日支は国境撤廃してでもアジアの復興を成し遂げよう」ということを前提とした工作である。このとき蒋介石は日本名で侵入している。
以下はその動向の報告公文である

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# by Ttakarada | 2007-10-31 12:31  

蒋介石総統からの招待

◆陽明山

「慎ちゃん、蒋介石から招かれている。一緒に行こう」 c0142134_1263391.jpg
 佐藤は山田から革命の同志であり、中華民国(現台湾)の蒋介石総統のことも聞いている。
 孫文の指示で山田、丁仁傑、そして日本名で石岡と名乗った蒋介石と満州工作に行ったこと、その結果、「だまされました」と、顔を真っ赤にして報告する真摯な蒋介石の態度に感銘したことや、宋一族の次女、美齢との結婚の折り、山田と大喧嘩したことなど、革命を通じた両氏のつながりは余人の挟む余地などないくらいの関係である。

 山田は宋美齢との結婚について相談に訪れた蒋介石にこう諌言した。あえて山田が諌言と称したのは当時、国民党の領袖としての立場を考えてのことである。
「君の功績は認める。しかし、いくら美齢が孫文先生の妻、慶齢の妹であり親戚になったとしても、あるいは宗家の財産が必要だとしても、あるいはそのことが国家統一の助力だ としてもそれは人の道に外れることだ。どうしても夫婦になりたければ妾にしろ」
 それ以来数年間、山田は絶交している。 

「結婚には条件があった。まずキリスト教でなければならない。本妻でなければならない。その他いくつかの条件が提示された。蒋介石は結婚していた女房をアメリカに追い出して美齢と盛大な結婚式を挙げたが自分は招待を断った」

 権力者となったが為に、より一層その権力を全支那において強固にするために考えた蒋介石の計略であり、民心掌握の置き所を錯誤した心のスキでもある美齢との結婚によって、いずれ招来するであろう権力の腐敗と堕落は、日本をはじめ列強の侵食を受けたように権力の腐敗によって衰亡した歴史の繰り返しを孫文の遺志をもって山田は説いたのである。

 権力者、蒋介石に疎まれようが、あるいは逆鱗に触れようが、山田の諌言はあの満州工作での真摯な態度に対する人間としての信頼と、辛亥革命の成果としての支那理想郷とアジア復興を希求した孫文の写し絵のような語りでもあった。
 終戦直後、それまで絶交状態であった山田に南京にいた蒋介石は「山田先生を護れ」と打電している。

 余談だが「恨みに報いるに徳をもっておこなう」と全中国に号令し在支邦人を多数の船舶を用いて帰還せしめたのは当時の情勢を顧みても歴史上、特筆される政策であった。
 そのことで戦後日本の大物代議士一行が総統面会の折り、そのことについて感謝の意を表したとき蒋介石は威儀を正してこう述べた。
「わたしに感謝は必要ない。あなたがたが感謝すべきはあなたがたの先輩に言ってください」
 満州国の日本国内にある財産問題が起こったときその時も蒋介石は「山田先生にお任せします」と担当者に指示している。

 戦後のどさくさに紛れて、ある名門財閥に勝手に処分してしまった満州国の日本人公使が山田に土下座までして許しを請うた場面を佐藤は目撃している。
 孫文は西洋の覇道に対して、東洋の王道の優越性を説いている。
 それは政治的な形態のみならず人格の問題をも含んでいる。
 辛亥革命の成功も物理的な武器、弾薬、策略のみで成功したものではなく革命に呼応した無垢なる民衆の犠牲と、その精神に畏怖の念を抱きつつ将来に継承しなければとうてい革命成功とはいえない。

 王道とは革命屋の破壊とは違い、いったん騒乱が平定した暁において、施政者が不特定多数の安寧をつねに憂慮することを革命をつうじて孫文が教えたと山田は理解している。
 「革命は血が伴う。しかしそこには敵味方の区別はない。あるのは無常感を包み込む忠恕がある。それが王道というものだ」と、山田は言う。
 その蒋介石からの招待である。
「そろそろ俺たちも齢だ。思い出話でもしたいのだろう」
 山田は飄々とした調子で佐藤の顔をのぞき込んだ。
 台北に着いたその日、山田は佐藤を伴って蒋介石の“お妾さん”の所に向かった。佐藤の印象では、品のある奇麗な女性であったという。蒋介石の邸宅は台北郊外の陽明山である。
 宴会に招かれた佐藤は山田と別々に陽明山に向かった。途中、車が故障してしまった。通りすがりの車もなく、宴会の時間には間に合わない。途方に暮れているとようやく陽明山に向かう車があった。一旦は通り過ぎたが、気がついたのか路肩に停まった。
 窓を下ろしてかっぷくのいい紳士が身を乗り出して声をかけた。
「どうしたんだね」
「蒋総統に招かれて陽明山に行きたいのですが車が故障して困っています」
 紳士はほほ笑みながら言った。
「それなら私も行くところだ。こちらに乗りなさい」
 会場は佐藤と、そのおかげで遅れてしまった紳士を待っていたかのように開始された。招待者がそれぞれ着席した。蒋介石は隣の山田と談笑をはじめている。日本人は山田と佐藤だけだった。

 見回すとさっきの恰幅のいい紳士が着席している。まずは出席者の紹介が始まった。国民党の重鎮、張群や軍人のなかにその紳士の名前が紹介された。
「何応欽将軍です」
 佐藤は驚きながらも軽い会釈をかわした。将軍は笑って返した。その後、佐藤は何応欽将軍を訪れ、近代日中史のさまざまな謎について聞いている。例えば西安事件前後の国民党内部の問題や、蒋介石がなぜ部下の要請にもかかわらず日本軍との衝突をためらったのか、など側近にしかうかがい知れない内容がある。
 宴会も佳境に入り中華宴席独特の乾杯が繰り広げられるなか、重臣も入り込めないような革命談義が山田と蒋介石の間で交わされている。それは革命同志のもつ独特の交歓であり世界でもあった。一瞬、会話が途切れ一同、山田の次の言葉に注目した。

「蒋さん、そろそろ私たちも齢だ。孫文先生に命令されて丁仁傑同志と三人で満州工作に行ったときのことを話してもいいだろう」

 蒋介石は即座に呼応した。
「ハオ ハオ」

 このことは孫文の一方の側面として国民党体制の「利」や建前として解釈していればとうてい認知できる話ではないが、東洋と西洋、当時のロシアの南下と支那の情勢、日本の国内事情、そして何よりも目標とすべき革命の成功によって究極の大経綸というべき日支提携しアジアを再興するという孫文の大志を互いに理解してのことである。
 蒋介石にとっても国内外事情、とりわけ大陸との問題や援助国アメリカとの調整、後に発生する旧来から台湾に居住していた内省人と、自分とともに台湾に渡った外省人との軋轢など、総統としての内憂が寝食生死をともにした山田との旧交懇親によって、革命当時の真摯な精神を呼び起こし、再度、国父孫文の大経綸に思い致したのであろう。

 通常の賓客接待にない和やかな雰囲気の中、一人の青年が用件を伝えて退室した。
「あの青年は」
 山田は肩を傾けて蒋介石に尋ねた。
「息子の経国です」
 山田はそう大きくない声で
「ベンコか」
 蒋介石は含み笑いをしている。
「佐藤さんいま山田先生は何と言ったのですか」
 重臣たちは気になる様子で佐藤に尋ねた。同じ同郷人であってもはじめて聞く言葉だが佐藤も解らないため山田に聞いてみた。
「一発だ」
「エェ」  佐藤は何がなんだか解らない。
「何が一発なんですか」
 隣の蒋介石は自分のことを何から何まで知っている山田の言葉に、日ごろの威厳を忘れ楽しんでいる。
「一発でできた子だ」
 意味はわかったが、何と訳していいか困り果てた。「蒋介石は女にもてる」と、山田はいうが佐藤はよくわからない。何番目の奥さんかはわからないが、数日しかいっしょにいなかったこともあった。言葉にするのもはばかる内容だが、その理由は山田から聞いて知っている。
 聞いてはいたが伯父と蒋介石との関係は史実にない事実である。 そしてつねに孫文先生の回顧から始まり孫文先生に帰る。宴会も終わりに近づき蒋介石が発言する。
「山田先生ありがとう。よろしかったら家も生活も心配要らない。いつまでもここにいて下さい」
 重臣たちも山田によって語られた総統のエピソードや、国父の経綸にふれて国家経営の指針を思い描いたとともに、国家の礎を築いた革命同志の旧交を眼前に見て、地位や格式を秤としない人物の交歓を時の経つのを忘れ、堪能することができたようだ。
 

◆ 回   顧


 佐藤は筆者にこう述回している。
「伯父は僕なんかにはあまりしゃべりませんよ。要人に呼ばれた席で話していること。伯父は僕ばっかり連れて歩くんですよ。息子たちは連れて歩かなかったみたいだ。蒋経国さんだけど蒋介石がいちばんはじめの奥さんと結婚して一晩で逃げたんだ。そして生まれたのが経国さんだ。奥さんは日本軍の南京爆撃で亡くなっている」

「招待された件だけれど、蒋介石さんに招かれれば普通はホテルに泊まるのですが、伯父の場合は大きな一軒家にボーイや、お手伝いさんを用意して何年でも滞在して下さいといわれるんです。招待されたとしても他の人とは意味が違う」

「生活はね、朝からテーブルいっぱいの料理が出てくるので伯父さんは『なんだ、朝からこんな贅沢をして』と怒るので、『伯父さん、残ったものはあの人たちが食べるので怒ってはいけません。あらかじめ分かって作るんですよ』というと、『おーそうか』と納得したことがある。」

「革命当時の伯父と蒋介石の関係だが、上海の伯父の家は革命の秘密本部でね、全世界の華僑から革命資金を送ってくるようになっていた。それを伯母が弾薬などといっしょに乳母車に子供を乗せて蒋介石の家に運ぶんです。当時の蒋介石のお妾さんは女郎屋の人で、私も一度ご馳走になったことがある。きれいな人だ」

「その次は陳潔如さんというひとで、蒋介石とは非常に仲良くて6、7年いっしょにいたはずだが、お妾さんにも陳潔如さんにも子供ができなかった」

「蒋介石は陳潔如さんが好きでいながら孫文の奥さんの妹、宋美齢をもらうというので伯父とはじめて喧嘩した。本妻や親類がけしからん奴だと、たいへんな問題になった。そんな環境のなかで息子の蒋経国が育ったわけだ」

「それゆえモスクワの孫中山大学へ留学したときに『打倒、蒋介石』を叫んだのだ。それと弟の蒋緯国さんは戴天仇と日本の旅館の女性で美智子さんという人の間に生まれた子供で、はじめは伯父が引き取ったんです」

「当時、蒋介石とお妾さんの間に子供が無かったものだから伯父は『これはおまえの先輩の戴さんの子供だけれども養ってくれんか』といったら、『わかった』といって養子にしてくれた。陳潔如さんはたいした人で、時折、癇癪をおこす蒋介石を上手にとりなし、革命同志のなかでは末席というべき黄埔軍学校の校長だった蒋介石を国民党の領袖にまでになったのは奥さんのおかげでもあったんだ」

「蒋緯国さんは来日すると私と会ってお母さんの話を尋ねてきた。蒋さんの子供は他には判らない。緯国さんは政治家としてではなく軍人として立派な人だ。1989年の天安門事件後に来日したとき、いろいろと話をしたが、そのときワイシャツのポケットに哀悼の意で黒いリボンが縫い付けてあったのが印象に残っている」

「伯父は蒋介石とその時々の立場を尊重し、なにが孫文精神の継承になるかを根底に、あるときは指導者としての資質を問い、また或るときは諌言や激励をともないながら革命の目指した崇高な理想にむかって挺身する同志の存在であった」

「たしかに、財閥孔祥熙につらなる宗一族の資金と、孫文夫人の慶齢の妹となれば政治的にも財政的にも強固になる。あるいは孫文革命の継承者としての責務が、目的のための手段として非難を承知で利用したのかもしれない。信念があれば人生の演技もたやすいことは分かっている」

「あの満州工作失敗のおり、顔を真っ赤にして真摯に詫びた姿からすればそれもありうる。ともかくそのような選択をした蒋介石も、列強やその影響下において跳梁跋
扈する侵入者の対策に追われ、国難というべき状況を国民党領袖としての責任として解決しなければな らない使命を負った愛国者であったはずだ」

「宗一族と縁戚の財閥孔祥熙や米国との関係や、国内に拠点を築きつつあった国際コミンテルンとの戦いを考えれば、蒋介石の立場上、その意図が理解できないわけではない。しかし、連合国の援助にまつわる物資、資金の不正にともなう腐敗は、孫文の遺した国民党の土台を腐敗させ、ついには民心の離反を招いたことは革命後の新生中国にとっては痛恨事にはなるが、内外の多面的圧迫と歴史に培われた民情を考えればそのこと全てが蒋介石の政策意志として葬り去るにはまだ時間を必要とするだろう」

 その後、大陸は中華人民共和国を率いる毛沢東、台湾においては大陸進攻を掲げながらも中華民国、国民党の領袖として互いの権力基盤の一応の安定をみたとき、蒋介石の招請を承けた伯父の訪台をきっかけに、伯父と革命の同志である廖仲豈の息子、廖承志を仲介とした蒋介石と毛沢東の関係開始の動きが起きたのだ。 成功していたらアジアは変わっていたはずである」

c0142134_1235220.jpg 佐藤のしぼり出すような回顧は『革命未だ成功せず』と、死後の革命継承を希望した孫文と、それに挺身した良政、純三郎兄弟の志操の継承者としての言葉でもある。
________________________________________
 【ミニ解説】
 蒋介石(1887-1975)は中国浙江省奉化県生まれ。1906年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学ぶ、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたといってよい。
 生涯、4人の妻を娶った。最後の妻は宋美齡であることはあまりにも有名である。浙江財閥宋一族の三姉妹の長女靄齡はビジネスマンでもあった孔祥煕に嫁ぎ、二女慶齡は孫文と結婚し、未亡人となった。1927年の三女美齡との結婚には二つの意味があった。
 一つは1925年に亡くなった孫文の義理の弟として、国民党の直系閨閥につながるということだった。二番目は宋家が国民党のスポンサーになるという意味だった。結婚の翌年、蒋介石の北伐軍は北京に入城し、中国統一を宣言した。後に兄の宋子文は約束通り国民党の財政部長となった。
 最初の妻の毛福梅との結婚は蒋介石が15歳のときである。そのとき毛福梅は4つ年上だった。蒋介石は生涯2人の男児を持った。台湾の二代目総統となった長男の経国は毛福梅の子供として1910年に生まれた。
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# by Ttakarada | 2007-10-31 12:08  

革命の史実

◆革命の継承

c0142134_15325510.jpgc0142134_15362991.jpg 山田純三郎は押し殺した声で呟いた。
 「慎ちゃん、日本に帰ろう」
 「伯父さん。今度のことは私情が原因で中止すべきのことではありません。孫さんの遺志です」
 佐藤はこれから展開するはずであった遠大な計画を目の前にしての中止に、やり切れない気持ちで再び山田に翻意をうながした。
 「伯父さん…」
 山田は心の鎮まりをみずからに言い聞かせるように
 「いや、帰ろう 残念なことだが仕方がない」
 それは永い沈黙だった。
 「孫さんはいつも言っていた。『革命は九十九回失敗しても最後に成功すればいい』と」
 山田は自分の身に降りかかった宿命というべき事情と、己に溶け込んだ孫文の遺志に立ち止まってはいられないアジアの憂慮を、私事の囚われや拘りを超越した姿で無言のうちに教えているようであった。

 山田は落胆する佐藤に静かに語りかけた。
 「廖さんにも連絡しよう。お母さんが待っていたら申し訳ない」
 慚愧の気持ちを振りはらい次の布石をうつ山田の言葉に佐藤はしぶしぶし従った。
 「これは両大人の面子とアジアの将来を賭けた大事業だったがいずれ志を継いだ人間の意思に任せるしかない。そのうち孫さんのように国家民族に囚われないアジアの大経綸を唱える人間が現れるはずだ。慎ちゃん。それは日本人かもしれない。いや明治維新を成し遂げたとき西洋列強に蹂躙されていた全アジア民族の光明であった、あの日本人の姿が再度、よみがえるならその資格はある。孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジアに協力するならアジア全民族はこぞって歓迎すると。僕はもう齢だ。慎ちゃん、世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」
 
 どこまでも冷静に語りかける山田の姿は、立ち止まってはいられないアジアの現状と、孫文ルネッサンスというべき運動の継続でもあった。
 「慎ちゃん、その仕事に比べれば今度のことは小さいことだ」
 佐藤は信じて疑わなかった成功と、その結果、訪れるであろうアジア安定の礎である両岸に対峙する両雄の交流端緒を思い起こすのであった。
 
◆孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人

 山田純三郎は青森県弘前市出身、生家のある在府町の真向かいの家は明治言論界の重鎮、陸羯南が住んでいた。幼少は「純コの馬鹿」と言われたくらいに愚鈍な少年であった。兄、良政は物静かで思慮深く、陸羯南に可愛がられその影響から当時、上海にあった東亜同文書院の教授として渡り、孫文の唱えた辛亥革命に挺身した日本人最初の犠牲者として恵州で戦死している。
 兄の後を追って革命に挺身した純三郎は、孫文の側近として臨終に立ち会った唯一の日本人でもある。

 革命史実はその後の体制が取りまとめるものですが、臨場事実については革命のさなかは当事者の口述、文章記述は情報漏洩の意味もあり、普通は書残さないものだ。後世の歴史家や研究者は年代を追って記述を取りまとめ、文章体として記録しているが、それさえも登場人物の高名無名、はたまた背景にある体制の都合によって作文されたり名利のための虚偽宣伝のネタにされることもある。

 山田のそれはすべてが体験口述のため「歴史家」「研究者」と称される人とは趣を異にするが、史実そのものは臨場体験でしか味わうことのない事実そのものの姿が現れている。
 「孫さんがなぁ…」ではじまる山田の語りは、歴史に興味のないものにも人間学として、あるいは、利害得失、枝葉末節といった思考の観点しかなくなった現代人にとって、懐かしくも忘れ去られたかのような人間像を思い起こさせるものでもある。

 革命や改革といった状況の中での緊張と挫折、あるいは土壇場における思考や行動は平常時では想像もできない人間の姿として現れるものである。逆に挫折や失敗はつきものとばかり、一刻の余裕に風雅を楽しむおおらかさもある。
 
 それは単なる高邁な論理の積み重ねではとうてい論証できることではなく、戦時下の混乱の極まりにこそゆきつく見解や直感力によって人物と事象をみることのできる山田ならではの言葉である。山田の話には必ずといってもいいほど枕言葉は決まっていた。
「孫さんはなぁ、世界をどうするか、そのためにはアジアはどうあるべきか、日中両国のかかわりは、そのためには自分は何をなすべきか、といったところに思考循環の原点を置き、行動の大義を唱えていたんだ。 それだからこそ我が国にも国家民族を超越してアジアの安寧を考え、今、日本人として何を行うべきかを自覚した多くの賛同者が現れたんだ」
 しかし、そこは革命である。大言壮語の壮士、利権に目ざとい財閥、虎視眈々と模様眺めの列強諸国など言語に表すことに憚るような逸話も数々あることも事実だ。
 そのような佐藤の問いには「色々とある」
 
◆刺客が襲った同志・陳基美
 
革命事情を熟知した山田純三郎ではあるが、根底にある日本人の矜持を思い巡らすのだろう語ることは少なかった。それでも革命同志である陳基美、戴天仇、廖仲愷、蒋介石、黄興、湯恩伯、丁仁傑、胡漢民らの話になると身を乗り出して熱中する山田であった。とくに陳基美については終生、心に刻まれた深い体験がある。
 
 山田は陳基美について語るとき、革命の悲惨さとその真実の継承を佐藤に求めた。
 清朝官警の執拗な摘発を逃れるため満鉄病院の一室を革命拠点として活動していたときがある。奥さんは日本人の看護婦長をしていた人で、男子一人をもうけている。革命後、北京にいた軍閥袁世凱と南京を拠点にしていた革命派との主導権争いが徐々にその激しさを増していたころ、革命派幹部にたいして袁世凱の刺客による執拗な攻撃がなされていた。

 当時、外国人とは不要な衝突を避けようと、租界と称して各国居留民の生活圏があった。列強の侵入者たちの行為は似たり寄ったりだが "犬と中国人は入るべからず"と厚顔無恥な看板が立てられたのもこの頃である。フランス租界にあった山田の家は蒋介石や陳基美をはじめ革命同志の隠れ家として格好の場所であった。

 1916年5月、4人の刺客が乱入して一階にいた陳基美を三発の銃弾で射殺している。その時、山田は三階にいて難を逃れたが、一階では当時2歳だった山田の子、民子を腕に抱いてあやしていた女中は目の前に繰り広げられる暗殺劇に驚き、抱いていた民子を離してしまった。それによって長女の民子は脳に障害をきたし、70余年にわたる生涯、陳基美暗殺の衝撃を伝える証人として障害を癒すことがなかった。
 山田にとっては、老いてなお童女のような無邪気なほほ笑みをかえす民子は殺伐とした革命回顧の万感こもる優しい潤いでもあった。
 山田は中華民国の民と国をとって長女に民子、次女に国子と命名し辛亥革命の成功を祝っていてるが、兄良政を恵州に亡くし、長女民子の不具を引き換えに得た革命の成功は、異国の地で陥りそうな戦慄な体験の後に訪れる無常感に浸っている暇もないくらい次の目標に駆り立てる遺志の確立でもあった。

 陳基美だけではなく、なかには革命偉人と称される人たちの色恋の逸話や、失敗した話、あるいは決断の状況など、顔色、態度所作、現場の状況など存命ならば思い出話に華が咲くであろう叙述が汲めども尽きぬほど山田の口から湧きでる。


 ◆日本人の助力を無条件で甘受した孫文

 佐藤は二十数年の大陸生活で中国人が驚くほど流暢な北京語を使いこなせるが、山田の話は新たな中国観として砂に染み込むように吸収できる。日本人が想像や思い込みで見る中国観と、佐藤が体験した民衆とともに歩んだ実社会の姿とは似て非なるものである。だからこそ無条件の人情に応える民衆の姿から、真になにを渇望しているのかを読み取るのである。

 加えて歴史上くり返される圧政のなかで、表裏を変え戯れなければ生きてはいけない現実のなかで民衆と生活を共にした佐藤だからこそ熟知していることであろう。
 すがすがしいまでの革命に臨む姿は本当の人情を理解し、それには命を賭けて応えるという愚直なまでの誠実さが革命という目的の前に身体秘奥から浮かび上がってきたのである。今度こそ確信できるものが孫文にはあった。それに加えて全アジアの光明であった我が国の維新の根本的な原動力であった明治の人間力を備えた同志が、死を超越した価値を添えて助力を惜しまなかったのである。

 孫文はその動きをアジアの心地よい躍動として日本人の助力を無条件で甘受し、かつ革命成功への原動力として共にアジアの将来を確信したのだ。国内においては疲弊してもなお民衆が保守している人情の潤いを、まとまりのない砂のような民と例えるような団結のない民族の奮起接合のための一滴として活かし、外に対しては民心の安定と、中日の提携を軸とした同盟によって列強に立ち向かおうとしたのである。

 そこには単に支配者の交代や権益の確保といった今までのような功利的国内革命ではなく、革命の大前提となる指導者孫文の支那史観、世界観、文明比較論、民衆相互の信頼とをもとに西洋の覇道にたいするアジアの王道の優越性を唱え決起したのだ。
 それは従来の為政者にない実直な行動に裏打ちされた優しさと確信があった。独りで思索し構想を練り、陽明学でいうところの「狂」に到達したかのような希望と安心が、理屈では到底叶うことができないであろう民心の希望を誘引したのである。

 革命は矛盾を背負った行為でもある。しかも改革と違い革命は矛盾を調整するものでもなければ肉体的衝撃を回避するために稚拙な論拠をもとめる知識人を待つものでもない。血肉が飛び散る凄惨な殺戮もあろう。あるいは回避するための駆け引きや謀略もある。しかし民族、歴史に身を献ずる行為と、報償をおもい図って行為に走る区別は、生きているからこそ語れる論理だけでは正邪の秤の均衡を保つことができない。

 ◆原点となった「大志」の有無

 動植物の死類が積層する表土に安住する人々の思想から考え出された絵のような政策や、地政学的な経国の綱領はあっても、民衆は「食、色、財」の本能的欲求を自由に享受させてくれる指導者を望むものだ。
 
 為政者の政策はあくまで「話」(話…舌が言う)。とくに権力者の統治のための便法に面従腹背し、そのことがややもすると習性として染み付いた民衆に向かって、支那人としての自立と自覚を喚起し、心の秘奥にある自己愛を民族連帯のための公徳心として醸成することによって取り戻すであろう安心という人情の潤いによって構成された社会や国家の姿を、あらためて回帰させるために自らの行動と語り(吾を言う)によって表現したのである。
 民族の性癖や地域慣習を是認したうえに、さらに歴史の虐政に隠されたかのような奥潜む互いの人情の存在を、民族の誇るべき最大の優性資質として発揮できるように促した慈父のような存在でもあった。

 終始、孫文に添い日常の言動を知る山田だから言えることではあるが、この革命は支那の歴史を構成する大河泥流のような民情を基としない表層の政治学、人類学、歴史学といった知識人の稚拙な論拠ではなんら実証することのできないばかりか、大言壮語する革命家と違い、つねに民衆の下座に置いてこそ見ることが可能な惻隠の観察が革命決起の大前提であり、それは悠久の大地から萌芽した種のようなものとして、おのずから到達点を直感して疑いのないものと確信したものであり、孫文自身にとっても自己革命ともいえるもので、書物にはない歴史の事実であり行動の原点になる感動と感激の蓄積となるものであった。

 山田は縁者である同時に、唯一の理解者である佐藤を「慎ちゃん」と呼んでつねに近くにおいている。それは孫文が山田を終生、側近として時には叱り、激励した姿を彷彿させるものでもある。
 孫文にしても山田の兄、良政を革命初期の恵州義挙において亡くし、その弟である純三郎を国籍を問わず側近として重用したことは兄の義命を懐かしむものであり、現代風にいう知識、技術、財力、あるいは有用なものしか価値を見いだすことができない人間評価ではなくあくまで「大志」の存在の有無を原点としたからでもある。

 「義命」
 春秋左氏伝の巻12 成公8年「信を以て義を行い、義を以て命を成す」
 つまり信義、義名を立てて大国が回りの国々と交流している限り平和であり随うだろうが、それが崩れたときは中心とする大国は信頼を失い結局は解体してしまう、という意味がある。
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【ミニ解説】  

辛亥革命=1911年10月10日、中国同盟会を中心に武漢で蜂起、清朝軍の革命派も合流して、漢口総督府を占拠し、中華民国を宣言した。海外にいた孫文は帰国して臨時大総統に選出され、首都を南京と決めた。
 翌1912年2月、袁世凱らの裏切りで清朝が皇帝の退位を余儀なくされた。中華民国の基盤は脆弱だったため、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲り、以降20年間中国は軍閥が割拠する世界となる。
恵州起義=1900年10月、義和団の混乱に乗じて、孫文は鄭士良らを広東省の恵州に進撃させた。軍勢1万に及んだが、日本からの武器援助が間に合わず計画を途中で中止した。山田良政(左写真)が戦死したのはこの時。孫文はフィリピンで独立運動を起こしたアギナルド将軍との連携で日本から武器を調達したが、武器を積んだ貨物船が途中で沈没するという不幸が重なった。以降、中国各地で革命軍が武装蜂起するようになった。
 廖さん=日中国交の礎を築いた故・廖承志中日友好協会会長のこと。父親・廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民党の幹部として辛亥革命の孫文を支えた。
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# by Ttakarada | 2007-10-30 15:41  

はじめに


c0142134_15233864.jpg 筆者が孫文に興味をもったのは辛亥革命の関係者に写真を見せて頂いたのがきっかけである。アジア人的体型。均整のとれた顔付き。西洋的センスを醸し出す服装。どこかひかれる人物だった。浅薄な見方と思われるが、それが初めての印象であった。
人物に興味を抱くと出身や家柄より、どんな考えをもち、何を行った人なのか。追ってどんな人との関わりがあったのかなど、さまざまな興味がわいてくる。

官製学校歴のなかでの基礎知識では、歴史上の人物として四角四面の検索や興味で終わってしまうだろうが、どのような癖があったのか、またそれが判断の場面でどんな表現で現れたのか。それは、清末の読書人、梁巨川が謂う、一国一家に表れるさまざまな問題は、人間の人格に起因するという東洋の人間学からして、また「因果」」の現象を、南方熊楠の説く、「因縁」に委ねたとき、歴史の流れの一粒であった登場人物を横目、覗き目ではなく、正面から直視したとき、我が国の明治の香りが同様な風となって薫ることに心地よいものがあることに気がついた。
いわゆるおもしろくて楽しい、そして好きになれる学習でもあった。
そのなかで、日ごろ些細な事にこだわって一喜一憂している吾身を、その時代に浸してみると、同じ人間でこうも違うのか、いやこの部分は同じだ、などと妙に近しい関係になったかのような気分になり、彼らの無条件で真摯な行動が及ぼした歴史の事跡に驚愕した。

登場人物の孫文、蒋介石と山田良政、弟純三郎、その甥佐藤慎一郎 後藤新平、頭山満、犬養毅など激動の日中史をいきいきとつづった日本人の活躍など普段、気に止めることのない革命史の舞台ではあるが、その構成はアジアスタンダードとして語り継がれ、民衆はその評価の決定を留め置きながら、未だカーテンコールを告げてはいない。

 ときあたかもアジア諸国を席巻している西洋式グローバルスタンダードの風は、財貨万能の気風を巻き起こし、地域特性の凝縮である深層の国力というべき情緒の融解さえ巻き起こし、まるで投網にかけられた雑魚のごとく跳ねまわっている。

 これらの状況を憂慮する人々のなかには、あこがれにも似た気持ちで再び演者の登場を促し、実直な演者のもと、明確なアジアの矜持を再現して欲しいという期待が感じられる。
ここでは取り立てて願望や哀愁といったものを取り上げるものでもなければ、“誰かがやってくれる”といった他力本願の気持ちから発するものではない。
熱狂と偏見が鎮まり公理がかたちを整え、そして恩讐を乗り越えた民族に再び縁が蘇るとするならば、アジアの中の日本人としての矜持を添えて民族提携によるアジアスタンダードの再興の一助として備忘録を呈したい。それはアジアの意思として構成すべきことであり、継承すべきことである。

 地球軸から考察しても東西文明の歴史的経過は、読み取れる栄枯盛衰のみではなく、循環する盛衰に対して補い合う東西の異なる質量という観点から、アジアの茫洋とした世界に存在する対立観を超越した無限の受容と、混沌の柔和を一方の優越した座標として掲げなければならないという使命感も芽生えた。また、そのように推察できる彼らの行動であった。
“群盲像を撫す”類いの論評は幼児性の抜け切らない知識人の専らの職分ではあるが、身じかな売文の輩や言論貴族のように、ときとして表現責任ともなう肉体的衝撃をいとも巧妙に安全地帯に回避して宴を貪るものもあれば、貪官に媚びて票田に伏す議員などは雑魚の歯軋りは届くこともない。
しかも、それらが唱える言論は、さも国家意志でもあるがごとく尋ねるものを惑わし続けている。

経済の本意である経世済民を、まるで軽世細民のごとく錯覚したケイザイや集積された富を国家のバロメーターとして、その目的を繁栄と成功にしか置かない行動と宣伝は、善良なる群盲というべき人間を多数輩出し、貴重な歴史の一章を、゛意志なき民の意志゛として糊塗し、錯誤を助長している。

ときに民衆の意図するものとは異なる軋轢や衝突を巻き起こし、アジア全体の衰亡を招いていることは他文明の意図的侵入を誘い、その意図する財貨の欲望が、まさに世界の基準であり、当然な啓示として歓迎されていることは未開の地と称された西欧のアジア観そのものであり、予期せぬ出来事の到来を危惧させる。

あえて国家主義にこだわり、アジアに閉じこもり安住すべきとは思わないが、アジア諸国が異なる環境と政治的国内事情を考慮しても、それぞれが財貨のみを繁栄の目的として他力誘引することに一喜一憂することは、標準(スタンダード)のない国家の同化現象として映ってしまう。
標準の前提に基準がある。
基準はすべてのものに合理を求めなければ成立しない。繁栄の対価とともに提唱される標準は、繁栄の意味すら他の文明に順化させなければ生き残れまい。日本が最後の列強としてアジアに進出したとき、それは大航海時代から始まった西欧の植民地政策に名を借りた夜盗、海賊の分別なきスタンダードの模倣でしかなかった。

 アジア解放という大義はあったが、皇民化、創氏改名などの同化政策は、武力が形を変えた財貨金融による欲望価値の同化にほかならない。歴史の観察はさまざまな切り口ととともに、悲哀、怨嗟という感情の読み込みなくしては尋常(平常心を尋ねる)な考察はできない。また、その影響と結果は永い時間を費やさなければならないことでもある。しかし、異なる価値に包み込まれた異文化の欲望喚起は、その地域の情緒を元とした生きる術であった自らの陋習までも捨て去っている。

 識者フランシス・フクヤマはキリスト教と儒教と対比させている。固定的観念ではそうであろう。また、部分の標準はあっても発する意志(基準)を同化するものもいることも事実だ。
 日本にも儒教学者は盲目的中国大好き人間が多いが一頃、ロシア文学に傾倒する人はロシア我が心の祖国と叫んでいた。

 老子は漠然としているが孔孟の説く儒教は知識人の看板には、ほど良い知識で間にあうという人もいる。もし文明を対比させるなら庶民感覚として西洋の「神」と、アジアの「天地自然」が相応だろう。 あえて「道教」的ともいえる。
たかだか地球上の東西南北を色分けしている話だが、自分は自らの分「全体の一部分」との認識に立って地球人、アジア人、日本人と置き所を変えると「我」とは違う「自分」が確認できることがある。

 そんな我が自分探しをするために歴史をひもとき、異なる民族に触れたり荒涼な環境に自身を浸してみたとき、はじめて自分に押し掛かっていた憂鬱と恐怖が解き放たれ“何かをしてみよう”と思い立ったなかに体験備忘のための拙書があった。
時節を違え、浮俗を錯誤したような自らの拙い視点ではあるが、妙な安堵と不完全が“生きている”感じられるゆとりがあった。そんなとき時流に媚び、情報を唯一断定的にとらえ、汲々として他者の標準というべき「理」に「合」わせているアジアの混迷に、想起すべき歴史からの提言を拙い体験として著してみたいといった動機があった。

 アジアスタンダード構築とセキュリティは、歴史の集積をひもとくことによって「人間」そのものの探求から容易に導きだせることが分かる。
人間を不完全な生物として認め、“非合理の合理”を人情によって自然界の「理」に同化させたアジア的諦観は時節の要求とともに、歴史の知恵として新たなスタンダードの構築をしなければならないことを教えてくれる。

ここで著した孫文の唱えた「三民主義、五権」もさることながら、植民地主義という大国の意図による誤った歴史の潮流に、アジアの矜持を掲げ敢然として立ちあがった明治の日本人との交流と革命の実証は、まさに芒洋としたアジアに孫文ルネッサンスというべき足跡を遺している。
人を好きになり、人に興味をもち、人に習い、学んだら行う。
そんな人間になりたいと思っていた矢先のことだった。
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# by Ttakarada | 2007-10-30 15:24  

旭日、出ずる国より  その志、東方に嗣ぐものあらんことを

筆者について

戦後50有余年、私たち日本人はどんな明日を望んで歩んで来たのか。今日、人心は混迷し社会は荒んだ様相を呈し、昨日までの価値観はガラガラと足下から崩れて行く、そして明日への歩みを進める方向すら見定められない。私たちはこんな国になろうとして歩んで来たのか?
 
敗戦という初めて体験する衝撃に日本人は打ちのめされた。虚無感と絶望の中から私たちは経済による復興という曙光を見いだし、わき目もふらずひたすらに働いて世界第2位の経済大国と呼ばれる奇跡の復興を遂げた。ただ、そんな成功を収めていながら一方では今日の様々な問題が引き起こされた。その問題を解決するに、再び経済成長だけというアプローチでことを解決することができるのか?

 経済だけに眼を向けそのほかの事は眼を瞑って来た、終戦当時既に成人していた人達も、とにかく戦前のことは考えない、もっと言えば自分たちの歩んだ歴史そのものを考え直そうともせず、「経済的豊かさの追求」を隠れ蓑にその他のことを置き去りにしてきた。
 その置き去りにしてきたことが何であったのか、今となってはそんなことを考える事すら意識にない人が増えているようだ。戦前を見直す、歴史を見直すと言うだけで「右翼・軍国主義者」というレッテルを貼り、自分は平和主義・民主主義と言って経済的豊かさの追求こそ唯一の幸福という価値観の中に逃げ込んでいる人が多い。

 ここに「孫文の再来を請う」という珠玉の論文がある。
 1850年代にフィリピンがスペインの植民地になった時、世界地図の上で非植民地として残ったのは、日本列島と朝鮮半島それに中国大陸だけであった。次は我々と危機に敏感に反応し明治維新を成就させたのは日本であるが、李氏朝鮮は鎖国政策を続け、大陸中国は香港を植民地として切り取られたのが19世紀の終わり頃の東アジア情勢であった。

 そんな時代に敢然と立ち上がり「アジアの連帯」によって欧米列強の帝国主義を跳ね返そうと叫んだのが孫文である。孫文は辛亥革命を成功させながらその後の混乱の中で病死した。その孫文の革命に早くから行動を共にし、中国の革命に殉じた日本人として山田良政、純三郎兄弟がいた。その山田兄弟の甥の佐藤慎一郎氏は昨年94歳で亡くなられるまで東京・荻窪で健在であった。
 
この論文の著者寶田時雄氏はその佐藤氏に師事し、その身近にあって孫文のこと、山田兄弟のこと、佐藤氏自身の戦前戦中の大陸での経験から得られて来た貴重な歴史的事実を学んできた。そしてこの論文は実体験に基づいた佐藤氏の語る言葉を一種の聞き書きのようにして書き上げられたものである。

 寶田氏は「無名有力」ということを日頃から実践し、青少年や地域のために尽くすことを行って来ていますが、この論文はそんな氏の清廉な心がそのまま薫り高い文章となってもいる。
                                           

                                                蜆の会 代表
                                                    大塚寿昭

                                         (元総務相大臣官房補佐官)
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# by Ttakarada | 2007-10-30 15:16  

請孫文再来

c0142134_14592072.jpg「請孫文再来」について

佐藤慎一郎氏と回顧すること30年、当初から座談、講演など同行させて頂くなかで、氏の叔父、山田良政、純三郎兄弟と孫文の革命交友と、そこに醸し出される明治の気概は、江戸末期から新時代に向かう日本人の実直で、かつ異民族に普遍な精神として継承されたものであった。その熱情に亡くなる直前まで抱えられていた自分があった。

時を同じくして戦後の満州人脈と言われた笠木良明氏を慕う方々との縁や、また漢学者安岡正篤氏の縁から日本の主導的立場にある方々との交誼を、両氏の傍らにおいて観察もしくは厚誼に預かったことは、その後の思索、備忘録作成に特異な姿を残したようだ。
それは浮俗の観察とは異なる意思として頭をもたげてきたことでもあった。あとがきは革命余話に交流抜粋を記している。25歳からの縁ではあるが、相手は70,80,90の高齢者である。さまざまな場面での勇み足を拾ってくれたりもした。
また、眼前の若僧に向かって自身に刻まれた満州残像などを、時を忘れたかのように語ってくれた。

いまでも秘匿しなければならない事柄もある。それは記者の追及や、研究者の質問ではない。茶飲みや、酒の肴のような孫の話し相手のようなもので嘘は無い。大変なことだと知ったのは大分、後のことでもあり、時系列の整理もそうであった。

その結果、佐藤氏の20数年に及ぶ激動期の中国経験、それは従来の死生観を変え、より柔軟な天地の思想である老子の風であり、安岡氏の日本独自の武士道や、古代から続いた綱維を王陽明、孔子にその活学の基とした、まさに剛柔表裏を交互に併せ持つ両碩学の狭間で得意し、あるいは複合物というべき変異な思索が、薫醸された学問として浸っていたようだ。

佐藤氏からは、「人情、国宝より重し」「利は義の和也」「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿より始末が悪い」と経験に裏打ちされた実学を、また安岡氏から「君は無名で有力がいい、そして郷学の作興だ」「文は巧い、下手が問題ではない、百年、二百年経っても君の至誠が通ずるものを遺すべきだ、時流に迎合する売文になってはいけない」と。
まるで、身内の息子なら耳をそむけるような内容だが、孫のような、しかも無名浅学な小僧に一生懸命、諭していただいた。それも時を違えて交互にである。
ときには赤尾敏氏や安部源基氏や、その人脈にある方々も交じることがあった。

佐藤先生はビールと煎餅と奥さん、一方、安岡先生はピース缶の両切り煙草に羊羹、浮俗の増幅した煩いを避けた両氏との香りある世界だった。
両氏は日光の田母沢で安岡氏が主宰する全国師友研修会で同席することがあり、また安岡氏が都内でおこなっていた虎ノ門教育会館での講話にも佐藤氏が代講している。
田母沢では研修後の懇談、いわゆる酔譚が恒例となっている。通常だと安岡氏の独断場の様相だが、佐藤氏が参加した懇親会では、佐藤氏の独断場で、安岡氏も愉しんで輪に慣れ親しんでいる。
佐藤氏のそれは、いわゆる中国の、゛Y学?゛を交えた知恵であり、天地自然に遵って生きる大陸民族への炯眼である。天衣無縫な佐藤氏のこと、中国の市井にある人々との楽しくも生きた話題が多く、なかなか就寝しない御両人に側近はいたく困惑していた。
両氏に共通しているのは、「貪らざるを以って、寶と為す」であろう。今時のやせ我慢ではない。名利冠位のはかなさを文明の栄枯盛衰に映る人間の所作に観て、国家社会に言論と行動、教化によってその姿を為していることだろう。

そのなかで拙書「請孫文再来」があった。革命家にありがちな毀誉褒貶の批評をこえて、明治の日本人が呼応した史実のなかで、登場人物の息と熱と伸吟を忘れまいと記してみた。両氏に面白い奴だと言われれば本懐だが、アジアの意思は伝えなくてはならないだろう。四方八方から熱狂と偏見が降り注ぐが、鎮まりの中で備忘、いや秘匿しようとした、いいハナシだったが、運悪く・?大塚、伴、両氏に発見されてしまった。

佐藤、安岡、両先生、いや登場人物がこの所業をなんと観るか、恥ずかしい限りである。題は孫文のような人がいま居たらどうだろうか、そんなメッセージを出せる指導者が中国にいたら、アジアはどのように変わるだろうか、そんなことを佐藤氏に語るとき、決まって、「孫文は歴史の必然である、検索研究ではない、アジアの情緒なんだ」 「また、いつか役立つような、時代を超えた普遍性もある」と説かれた。

もちろん、革命家にありがちな後世の口舌家のいう、大法螺吹き、浪費家、詐欺師、小心、女色などの評価損?はあろうが、朝野の日本人が呼応した当時のアジアの実態は、現在評価に比べるものではない。なぜなら肉体的衝撃はその場に居たものだけが知るものだからだ。
拙書は、そんなおせっかいな夢を残している人たちによって世間の目に触れた。
いつの間にか、一人歩きをしているようだ。両先生やそれにかかわる縁者から、゛えらいものに手を出した゛、と笑われそうな表題の願いでもある。
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# by Ttakarada | 2007-10-30 15:02