カテゴリ:未分類( 25 )

 

蒋介石総統からの招待

◆陽明山

「慎ちゃん、蒋介石から招かれている。一緒に行こう」 c0142134_1263391.jpg
 佐藤は山田から革命の同志であり、中華民国(現台湾)の蒋介石総統のことも聞いている。
 孫文の指示で山田、丁仁傑、そして日本名で石岡と名乗った蒋介石と満州工作に行ったこと、その結果、「だまされました」と、顔を真っ赤にして報告する真摯な蒋介石の態度に感銘したことや、宋一族の次女、美齢との結婚の折り、山田と大喧嘩したことなど、革命を通じた両氏のつながりは余人の挟む余地などないくらいの関係である。

 山田は宋美齢との結婚について相談に訪れた蒋介石にこう諌言した。あえて山田が諌言と称したのは当時、国民党の領袖としての立場を考えてのことである。
「君の功績は認める。しかし、いくら美齢が孫文先生の妻、慶齢の妹であり親戚になったとしても、あるいは宗家の財産が必要だとしても、あるいはそのことが国家統一の助力だ としてもそれは人の道に外れることだ。どうしても夫婦になりたければ妾にしろ」
 それ以来数年間、山田は絶交している。 

「結婚には条件があった。まずキリスト教でなければならない。本妻でなければならない。その他いくつかの条件が提示された。蒋介石は結婚していた女房をアメリカに追い出して美齢と盛大な結婚式を挙げたが自分は招待を断った」

 権力者となったが為に、より一層その権力を全支那において強固にするために考えた蒋介石の計略であり、民心掌握の置き所を錯誤した心のスキでもある美齢との結婚によって、いずれ招来するであろう権力の腐敗と堕落は、日本をはじめ列強の侵食を受けたように権力の腐敗によって衰亡した歴史の繰り返しを孫文の遺志をもって山田は説いたのである。

 権力者、蒋介石に疎まれようが、あるいは逆鱗に触れようが、山田の諌言はあの満州工作での真摯な態度に対する人間としての信頼と、辛亥革命の成果としての支那理想郷とアジア復興を希求した孫文の写し絵のような語りでもあった。
 終戦直後、それまで絶交状態であった山田に南京にいた蒋介石は「山田先生を護れ」と打電している。

 余談だが「恨みに報いるに徳をもっておこなう」と全中国に号令し在支邦人を多数の船舶を用いて帰還せしめたのは当時の情勢を顧みても歴史上、特筆される政策であった。
 そのことで戦後日本の大物代議士一行が総統面会の折り、そのことについて感謝の意を表したとき蒋介石は威儀を正してこう述べた。
「わたしに感謝は必要ない。あなたがたが感謝すべきはあなたがたの先輩に言ってください」
 満州国の日本国内にある財産問題が起こったときその時も蒋介石は「山田先生にお任せします」と担当者に指示している。

 戦後のどさくさに紛れて、ある名門財閥に勝手に処分してしまった満州国の日本人公使が山田に土下座までして許しを請うた場面を佐藤は目撃している。
 孫文は西洋の覇道に対して、東洋の王道の優越性を説いている。
 それは政治的な形態のみならず人格の問題をも含んでいる。
 辛亥革命の成功も物理的な武器、弾薬、策略のみで成功したものではなく革命に呼応した無垢なる民衆の犠牲と、その精神に畏怖の念を抱きつつ将来に継承しなければとうてい革命成功とはいえない。

 王道とは革命屋の破壊とは違い、いったん騒乱が平定した暁において、施政者が不特定多数の安寧をつねに憂慮することを革命をつうじて孫文が教えたと山田は理解している。
 「革命は血が伴う。しかしそこには敵味方の区別はない。あるのは無常感を包み込む忠恕がある。それが王道というものだ」と、山田は言う。
 その蒋介石からの招待である。
「そろそろ俺たちも齢だ。思い出話でもしたいのだろう」
 山田は飄々とした調子で佐藤の顔をのぞき込んだ。
 台北に着いたその日、山田は佐藤を伴って蒋介石の“お妾さん”の所に向かった。佐藤の印象では、品のある奇麗な女性であったという。蒋介石の邸宅は台北郊外の陽明山である。
 宴会に招かれた佐藤は山田と別々に陽明山に向かった。途中、車が故障してしまった。通りすがりの車もなく、宴会の時間には間に合わない。途方に暮れているとようやく陽明山に向かう車があった。一旦は通り過ぎたが、気がついたのか路肩に停まった。
 窓を下ろしてかっぷくのいい紳士が身を乗り出して声をかけた。
「どうしたんだね」
「蒋総統に招かれて陽明山に行きたいのですが車が故障して困っています」
 紳士はほほ笑みながら言った。
「それなら私も行くところだ。こちらに乗りなさい」
 会場は佐藤と、そのおかげで遅れてしまった紳士を待っていたかのように開始された。招待者がそれぞれ着席した。蒋介石は隣の山田と談笑をはじめている。日本人は山田と佐藤だけだった。

 見回すとさっきの恰幅のいい紳士が着席している。まずは出席者の紹介が始まった。国民党の重鎮、張群や軍人のなかにその紳士の名前が紹介された。
「何応欽将軍です」
 佐藤は驚きながらも軽い会釈をかわした。将軍は笑って返した。その後、佐藤は何応欽将軍を訪れ、近代日中史のさまざまな謎について聞いている。例えば西安事件前後の国民党内部の問題や、蒋介石がなぜ部下の要請にもかかわらず日本軍との衝突をためらったのか、など側近にしかうかがい知れない内容がある。
 宴会も佳境に入り中華宴席独特の乾杯が繰り広げられるなか、重臣も入り込めないような革命談義が山田と蒋介石の間で交わされている。それは革命同志のもつ独特の交歓であり世界でもあった。一瞬、会話が途切れ一同、山田の次の言葉に注目した。

「蒋さん、そろそろ私たちも齢だ。孫文先生に命令されて丁仁傑同志と三人で満州工作に行ったときのことを話してもいいだろう」

 蒋介石は即座に呼応した。
「ハオ ハオ」

 このことは孫文の一方の側面として国民党体制の「利」や建前として解釈していればとうてい認知できる話ではないが、東洋と西洋、当時のロシアの南下と支那の情勢、日本の国内事情、そして何よりも目標とすべき革命の成功によって究極の大経綸というべき日支提携しアジアを再興するという孫文の大志を互いに理解してのことである。
 蒋介石にとっても国内外事情、とりわけ大陸との問題や援助国アメリカとの調整、後に発生する旧来から台湾に居住していた内省人と、自分とともに台湾に渡った外省人との軋轢など、総統としての内憂が寝食生死をともにした山田との旧交懇親によって、革命当時の真摯な精神を呼び起こし、再度、国父孫文の大経綸に思い致したのであろう。

 通常の賓客接待にない和やかな雰囲気の中、一人の青年が用件を伝えて退室した。
「あの青年は」
 山田は肩を傾けて蒋介石に尋ねた。
「息子の経国です」
 山田はそう大きくない声で
「ベンコか」
 蒋介石は含み笑いをしている。
「佐藤さんいま山田先生は何と言ったのですか」
 重臣たちは気になる様子で佐藤に尋ねた。同じ同郷人であってもはじめて聞く言葉だが佐藤も解らないため山田に聞いてみた。
「一発だ」
「エェ」  佐藤は何がなんだか解らない。
「何が一発なんですか」
 隣の蒋介石は自分のことを何から何まで知っている山田の言葉に、日ごろの威厳を忘れ楽しんでいる。
「一発でできた子だ」
 意味はわかったが、何と訳していいか困り果てた。「蒋介石は女にもてる」と、山田はいうが佐藤はよくわからない。何番目の奥さんかはわからないが、数日しかいっしょにいなかったこともあった。言葉にするのもはばかる内容だが、その理由は山田から聞いて知っている。
 聞いてはいたが伯父と蒋介石との関係は史実にない事実である。 そしてつねに孫文先生の回顧から始まり孫文先生に帰る。宴会も終わりに近づき蒋介石が発言する。
「山田先生ありがとう。よろしかったら家も生活も心配要らない。いつまでもここにいて下さい」
 重臣たちも山田によって語られた総統のエピソードや、国父の経綸にふれて国家経営の指針を思い描いたとともに、国家の礎を築いた革命同志の旧交を眼前に見て、地位や格式を秤としない人物の交歓を時の経つのを忘れ、堪能することができたようだ。
 

◆ 回   顧


 佐藤は筆者にこう述回している。
「伯父は僕なんかにはあまりしゃべりませんよ。要人に呼ばれた席で話していること。伯父は僕ばっかり連れて歩くんですよ。息子たちは連れて歩かなかったみたいだ。蒋経国さんだけど蒋介石がいちばんはじめの奥さんと結婚して一晩で逃げたんだ。そして生まれたのが経国さんだ。奥さんは日本軍の南京爆撃で亡くなっている」

「招待された件だけれど、蒋介石さんに招かれれば普通はホテルに泊まるのですが、伯父の場合は大きな一軒家にボーイや、お手伝いさんを用意して何年でも滞在して下さいといわれるんです。招待されたとしても他の人とは意味が違う」

「生活はね、朝からテーブルいっぱいの料理が出てくるので伯父さんは『なんだ、朝からこんな贅沢をして』と怒るので、『伯父さん、残ったものはあの人たちが食べるので怒ってはいけません。あらかじめ分かって作るんですよ』というと、『おーそうか』と納得したことがある。」

「革命当時の伯父と蒋介石の関係だが、上海の伯父の家は革命の秘密本部でね、全世界の華僑から革命資金を送ってくるようになっていた。それを伯母が弾薬などといっしょに乳母車に子供を乗せて蒋介石の家に運ぶんです。当時の蒋介石のお妾さんは女郎屋の人で、私も一度ご馳走になったことがある。きれいな人だ」

「その次は陳潔如さんというひとで、蒋介石とは非常に仲良くて6、7年いっしょにいたはずだが、お妾さんにも陳潔如さんにも子供ができなかった」

「蒋介石は陳潔如さんが好きでいながら孫文の奥さんの妹、宋美齢をもらうというので伯父とはじめて喧嘩した。本妻や親類がけしからん奴だと、たいへんな問題になった。そんな環境のなかで息子の蒋経国が育ったわけだ」

「それゆえモスクワの孫中山大学へ留学したときに『打倒、蒋介石』を叫んだのだ。それと弟の蒋緯国さんは戴天仇と日本の旅館の女性で美智子さんという人の間に生まれた子供で、はじめは伯父が引き取ったんです」

「当時、蒋介石とお妾さんの間に子供が無かったものだから伯父は『これはおまえの先輩の戴さんの子供だけれども養ってくれんか』といったら、『わかった』といって養子にしてくれた。陳潔如さんはたいした人で、時折、癇癪をおこす蒋介石を上手にとりなし、革命同志のなかでは末席というべき黄埔軍学校の校長だった蒋介石を国民党の領袖にまでになったのは奥さんのおかげでもあったんだ」

「蒋緯国さんは来日すると私と会ってお母さんの話を尋ねてきた。蒋さんの子供は他には判らない。緯国さんは政治家としてではなく軍人として立派な人だ。1989年の天安門事件後に来日したとき、いろいろと話をしたが、そのときワイシャツのポケットに哀悼の意で黒いリボンが縫い付けてあったのが印象に残っている」

「伯父は蒋介石とその時々の立場を尊重し、なにが孫文精神の継承になるかを根底に、あるときは指導者としての資質を問い、また或るときは諌言や激励をともないながら革命の目指した崇高な理想にむかって挺身する同志の存在であった」

「たしかに、財閥孔祥熙につらなる宗一族の資金と、孫文夫人の慶齢の妹となれば政治的にも財政的にも強固になる。あるいは孫文革命の継承者としての責務が、目的のための手段として非難を承知で利用したのかもしれない。信念があれば人生の演技もたやすいことは分かっている」

「あの満州工作失敗のおり、顔を真っ赤にして真摯に詫びた姿からすればそれもありうる。ともかくそのような選択をした蒋介石も、列強やその影響下において跳梁跋
扈する侵入者の対策に追われ、国難というべき状況を国民党領袖としての責任として解決しなければな らない使命を負った愛国者であったはずだ」

「宗一族と縁戚の財閥孔祥熙や米国との関係や、国内に拠点を築きつつあった国際コミンテルンとの戦いを考えれば、蒋介石の立場上、その意図が理解できないわけではない。しかし、連合国の援助にまつわる物資、資金の不正にともなう腐敗は、孫文の遺した国民党の土台を腐敗させ、ついには民心の離反を招いたことは革命後の新生中国にとっては痛恨事にはなるが、内外の多面的圧迫と歴史に培われた民情を考えればそのこと全てが蒋介石の政策意志として葬り去るにはまだ時間を必要とするだろう」

 その後、大陸は中華人民共和国を率いる毛沢東、台湾においては大陸進攻を掲げながらも中華民国、国民党の領袖として互いの権力基盤の一応の安定をみたとき、蒋介石の招請を承けた伯父の訪台をきっかけに、伯父と革命の同志である廖仲豈の息子、廖承志を仲介とした蒋介石と毛沢東の関係開始の動きが起きたのだ。 成功していたらアジアは変わっていたはずである」

c0142134_1235220.jpg 佐藤のしぼり出すような回顧は『革命未だ成功せず』と、死後の革命継承を希望した孫文と、それに挺身した良政、純三郎兄弟の志操の継承者としての言葉でもある。
________________________________________
 【ミニ解説】
 蒋介石(1887-1975)は中国浙江省奉化県生まれ。1906年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学ぶ、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたといってよい。
 生涯、4人の妻を娶った。最後の妻は宋美齡であることはあまりにも有名である。浙江財閥宋一族の三姉妹の長女靄齡はビジネスマンでもあった孔祥煕に嫁ぎ、二女慶齡は孫文と結婚し、未亡人となった。1927年の三女美齡との結婚には二つの意味があった。
 一つは1925年に亡くなった孫文の義理の弟として、国民党の直系閨閥につながるということだった。二番目は宋家が国民党のスポンサーになるという意味だった。結婚の翌年、蒋介石の北伐軍は北京に入城し、中国統一を宣言した。後に兄の宋子文は約束通り国民党の財政部長となった。
 最初の妻の毛福梅との結婚は蒋介石が15歳のときである。そのとき毛福梅は4つ年上だった。蒋介石は生涯2人の男児を持った。台湾の二代目総統となった長男の経国は毛福梅の子供として1910年に生まれた。
[PR]

by Ttakarada | 2007-10-31 12:08  

革命の史実

◆革命の継承

c0142134_15325510.jpgc0142134_15362991.jpg 山田純三郎は押し殺した声で呟いた。
 「慎ちゃん、日本に帰ろう」
 「伯父さん。今度のことは私情が原因で中止すべきのことではありません。孫さんの遺志です」
 佐藤はこれから展開するはずであった遠大な計画を目の前にしての中止に、やり切れない気持ちで再び山田に翻意をうながした。
 「伯父さん…」
 山田は心の鎮まりをみずからに言い聞かせるように
 「いや、帰ろう 残念なことだが仕方がない」
 それは永い沈黙だった。
 「孫さんはいつも言っていた。『革命は九十九回失敗しても最後に成功すればいい』と」
 山田は自分の身に降りかかった宿命というべき事情と、己に溶け込んだ孫文の遺志に立ち止まってはいられないアジアの憂慮を、私事の囚われや拘りを超越した姿で無言のうちに教えているようであった。

 山田は落胆する佐藤に静かに語りかけた。
 「廖さんにも連絡しよう。お母さんが待っていたら申し訳ない」
 慚愧の気持ちを振りはらい次の布石をうつ山田の言葉に佐藤はしぶしぶし従った。
 「これは両大人の面子とアジアの将来を賭けた大事業だったがいずれ志を継いだ人間の意思に任せるしかない。そのうち孫さんのように国家民族に囚われないアジアの大経綸を唱える人間が現れるはずだ。慎ちゃん。それは日本人かもしれない。いや明治維新を成し遂げたとき西洋列強に蹂躙されていた全アジア民族の光明であった、あの日本人の姿が再度、よみがえるならその資格はある。孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジアに協力するならアジア全民族はこぞって歓迎すると。僕はもう齢だ。慎ちゃん、世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」
 
 どこまでも冷静に語りかける山田の姿は、立ち止まってはいられないアジアの現状と、孫文ルネッサンスというべき運動の継続でもあった。
 「慎ちゃん、その仕事に比べれば今度のことは小さいことだ」
 佐藤は信じて疑わなかった成功と、その結果、訪れるであろうアジア安定の礎である両岸に対峙する両雄の交流端緒を思い起こすのであった。
 
◆孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人

 山田純三郎は青森県弘前市出身、生家のある在府町の真向かいの家は明治言論界の重鎮、陸羯南が住んでいた。幼少は「純コの馬鹿」と言われたくらいに愚鈍な少年であった。兄、良政は物静かで思慮深く、陸羯南に可愛がられその影響から当時、上海にあった東亜同文書院の教授として渡り、孫文の唱えた辛亥革命に挺身した日本人最初の犠牲者として恵州で戦死している。
 兄の後を追って革命に挺身した純三郎は、孫文の側近として臨終に立ち会った唯一の日本人でもある。

 革命史実はその後の体制が取りまとめるものですが、臨場事実については革命のさなかは当事者の口述、文章記述は情報漏洩の意味もあり、普通は書残さないものだ。後世の歴史家や研究者は年代を追って記述を取りまとめ、文章体として記録しているが、それさえも登場人物の高名無名、はたまた背景にある体制の都合によって作文されたり名利のための虚偽宣伝のネタにされることもある。

 山田のそれはすべてが体験口述のため「歴史家」「研究者」と称される人とは趣を異にするが、史実そのものは臨場体験でしか味わうことのない事実そのものの姿が現れている。
 「孫さんがなぁ…」ではじまる山田の語りは、歴史に興味のないものにも人間学として、あるいは、利害得失、枝葉末節といった思考の観点しかなくなった現代人にとって、懐かしくも忘れ去られたかのような人間像を思い起こさせるものでもある。

 革命や改革といった状況の中での緊張と挫折、あるいは土壇場における思考や行動は平常時では想像もできない人間の姿として現れるものである。逆に挫折や失敗はつきものとばかり、一刻の余裕に風雅を楽しむおおらかさもある。
 
 それは単なる高邁な論理の積み重ねではとうてい論証できることではなく、戦時下の混乱の極まりにこそゆきつく見解や直感力によって人物と事象をみることのできる山田ならではの言葉である。山田の話には必ずといってもいいほど枕言葉は決まっていた。
「孫さんはなぁ、世界をどうするか、そのためにはアジアはどうあるべきか、日中両国のかかわりは、そのためには自分は何をなすべきか、といったところに思考循環の原点を置き、行動の大義を唱えていたんだ。 それだからこそ我が国にも国家民族を超越してアジアの安寧を考え、今、日本人として何を行うべきかを自覚した多くの賛同者が現れたんだ」
 しかし、そこは革命である。大言壮語の壮士、利権に目ざとい財閥、虎視眈々と模様眺めの列強諸国など言語に表すことに憚るような逸話も数々あることも事実だ。
 そのような佐藤の問いには「色々とある」
 
◆刺客が襲った同志・陳基美
 
革命事情を熟知した山田純三郎ではあるが、根底にある日本人の矜持を思い巡らすのだろう語ることは少なかった。それでも革命同志である陳基美、戴天仇、廖仲愷、蒋介石、黄興、湯恩伯、丁仁傑、胡漢民らの話になると身を乗り出して熱中する山田であった。とくに陳基美については終生、心に刻まれた深い体験がある。
 
 山田は陳基美について語るとき、革命の悲惨さとその真実の継承を佐藤に求めた。
 清朝官警の執拗な摘発を逃れるため満鉄病院の一室を革命拠点として活動していたときがある。奥さんは日本人の看護婦長をしていた人で、男子一人をもうけている。革命後、北京にいた軍閥袁世凱と南京を拠点にしていた革命派との主導権争いが徐々にその激しさを増していたころ、革命派幹部にたいして袁世凱の刺客による執拗な攻撃がなされていた。

 当時、外国人とは不要な衝突を避けようと、租界と称して各国居留民の生活圏があった。列強の侵入者たちの行為は似たり寄ったりだが "犬と中国人は入るべからず"と厚顔無恥な看板が立てられたのもこの頃である。フランス租界にあった山田の家は蒋介石や陳基美をはじめ革命同志の隠れ家として格好の場所であった。

 1916年5月、4人の刺客が乱入して一階にいた陳基美を三発の銃弾で射殺している。その時、山田は三階にいて難を逃れたが、一階では当時2歳だった山田の子、民子を腕に抱いてあやしていた女中は目の前に繰り広げられる暗殺劇に驚き、抱いていた民子を離してしまった。それによって長女の民子は脳に障害をきたし、70余年にわたる生涯、陳基美暗殺の衝撃を伝える証人として障害を癒すことがなかった。
 山田にとっては、老いてなお童女のような無邪気なほほ笑みをかえす民子は殺伐とした革命回顧の万感こもる優しい潤いでもあった。
 山田は中華民国の民と国をとって長女に民子、次女に国子と命名し辛亥革命の成功を祝っていてるが、兄良政を恵州に亡くし、長女民子の不具を引き換えに得た革命の成功は、異国の地で陥りそうな戦慄な体験の後に訪れる無常感に浸っている暇もないくらい次の目標に駆り立てる遺志の確立でもあった。

 陳基美だけではなく、なかには革命偉人と称される人たちの色恋の逸話や、失敗した話、あるいは決断の状況など、顔色、態度所作、現場の状況など存命ならば思い出話に華が咲くであろう叙述が汲めども尽きぬほど山田の口から湧きでる。


 ◆日本人の助力を無条件で甘受した孫文

 佐藤は二十数年の大陸生活で中国人が驚くほど流暢な北京語を使いこなせるが、山田の話は新たな中国観として砂に染み込むように吸収できる。日本人が想像や思い込みで見る中国観と、佐藤が体験した民衆とともに歩んだ実社会の姿とは似て非なるものである。だからこそ無条件の人情に応える民衆の姿から、真になにを渇望しているのかを読み取るのである。

 加えて歴史上くり返される圧政のなかで、表裏を変え戯れなければ生きてはいけない現実のなかで民衆と生活を共にした佐藤だからこそ熟知していることであろう。
 すがすがしいまでの革命に臨む姿は本当の人情を理解し、それには命を賭けて応えるという愚直なまでの誠実さが革命という目的の前に身体秘奥から浮かび上がってきたのである。今度こそ確信できるものが孫文にはあった。それに加えて全アジアの光明であった我が国の維新の根本的な原動力であった明治の人間力を備えた同志が、死を超越した価値を添えて助力を惜しまなかったのである。

 孫文はその動きをアジアの心地よい躍動として日本人の助力を無条件で甘受し、かつ革命成功への原動力として共にアジアの将来を確信したのだ。国内においては疲弊してもなお民衆が保守している人情の潤いを、まとまりのない砂のような民と例えるような団結のない民族の奮起接合のための一滴として活かし、外に対しては民心の安定と、中日の提携を軸とした同盟によって列強に立ち向かおうとしたのである。

 そこには単に支配者の交代や権益の確保といった今までのような功利的国内革命ではなく、革命の大前提となる指導者孫文の支那史観、世界観、文明比較論、民衆相互の信頼とをもとに西洋の覇道にたいするアジアの王道の優越性を唱え決起したのだ。
 それは従来の為政者にない実直な行動に裏打ちされた優しさと確信があった。独りで思索し構想を練り、陽明学でいうところの「狂」に到達したかのような希望と安心が、理屈では到底叶うことができないであろう民心の希望を誘引したのである。

 革命は矛盾を背負った行為でもある。しかも改革と違い革命は矛盾を調整するものでもなければ肉体的衝撃を回避するために稚拙な論拠をもとめる知識人を待つものでもない。血肉が飛び散る凄惨な殺戮もあろう。あるいは回避するための駆け引きや謀略もある。しかし民族、歴史に身を献ずる行為と、報償をおもい図って行為に走る区別は、生きているからこそ語れる論理だけでは正邪の秤の均衡を保つことができない。

 ◆原点となった「大志」の有無

 動植物の死類が積層する表土に安住する人々の思想から考え出された絵のような政策や、地政学的な経国の綱領はあっても、民衆は「食、色、財」の本能的欲求を自由に享受させてくれる指導者を望むものだ。
 
 為政者の政策はあくまで「話」(話…舌が言う)。とくに権力者の統治のための便法に面従腹背し、そのことがややもすると習性として染み付いた民衆に向かって、支那人としての自立と自覚を喚起し、心の秘奥にある自己愛を民族連帯のための公徳心として醸成することによって取り戻すであろう安心という人情の潤いによって構成された社会や国家の姿を、あらためて回帰させるために自らの行動と語り(吾を言う)によって表現したのである。
 民族の性癖や地域慣習を是認したうえに、さらに歴史の虐政に隠されたかのような奥潜む互いの人情の存在を、民族の誇るべき最大の優性資質として発揮できるように促した慈父のような存在でもあった。

 終始、孫文に添い日常の言動を知る山田だから言えることではあるが、この革命は支那の歴史を構成する大河泥流のような民情を基としない表層の政治学、人類学、歴史学といった知識人の稚拙な論拠ではなんら実証することのできないばかりか、大言壮語する革命家と違い、つねに民衆の下座に置いてこそ見ることが可能な惻隠の観察が革命決起の大前提であり、それは悠久の大地から萌芽した種のようなものとして、おのずから到達点を直感して疑いのないものと確信したものであり、孫文自身にとっても自己革命ともいえるもので、書物にはない歴史の事実であり行動の原点になる感動と感激の蓄積となるものであった。

 山田は縁者である同時に、唯一の理解者である佐藤を「慎ちゃん」と呼んでつねに近くにおいている。それは孫文が山田を終生、側近として時には叱り、激励した姿を彷彿させるものでもある。
 孫文にしても山田の兄、良政を革命初期の恵州義挙において亡くし、その弟である純三郎を国籍を問わず側近として重用したことは兄の義命を懐かしむものであり、現代風にいう知識、技術、財力、あるいは有用なものしか価値を見いだすことができない人間評価ではなくあくまで「大志」の存在の有無を原点としたからでもある。

 「義命」
 春秋左氏伝の巻12 成公8年「信を以て義を行い、義を以て命を成す」
 つまり信義、義名を立てて大国が回りの国々と交流している限り平和であり随うだろうが、それが崩れたときは中心とする大国は信頼を失い結局は解体してしまう、という意味がある。
________________________________________
【ミニ解説】  

辛亥革命=1911年10月10日、中国同盟会を中心に武漢で蜂起、清朝軍の革命派も合流して、漢口総督府を占拠し、中華民国を宣言した。海外にいた孫文は帰国して臨時大総統に選出され、首都を南京と決めた。
 翌1912年2月、袁世凱らの裏切りで清朝が皇帝の退位を余儀なくされた。中華民国の基盤は脆弱だったため、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲り、以降20年間中国は軍閥が割拠する世界となる。
恵州起義=1900年10月、義和団の混乱に乗じて、孫文は鄭士良らを広東省の恵州に進撃させた。軍勢1万に及んだが、日本からの武器援助が間に合わず計画を途中で中止した。山田良政(左写真)が戦死したのはこの時。孫文はフィリピンで独立運動を起こしたアギナルド将軍との連携で日本から武器を調達したが、武器を積んだ貨物船が途中で沈没するという不幸が重なった。以降、中国各地で革命軍が武装蜂起するようになった。
 廖さん=日中国交の礎を築いた故・廖承志中日友好協会会長のこと。父親・廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民党の幹部として辛亥革命の孫文を支えた。
[PR]

by Ttakarada | 2007-10-30 15:41  

はじめに


c0142134_15233864.jpg 筆者が孫文に興味をもったのは辛亥革命の関係者に写真を見せて頂いたのがきっかけである。アジア人的体型。均整のとれた顔付き。西洋的センスを醸し出す服装。どこかひかれる人物だった。浅薄な見方と思われるが、それが初めての印象であった。
人物に興味を抱くと出身や家柄より、どんな考えをもち、何を行った人なのか。追ってどんな人との関わりがあったのかなど、さまざまな興味がわいてくる。

官製学校歴のなかでの基礎知識では、歴史上の人物として四角四面の検索や興味で終わってしまうだろうが、どのような癖があったのか、またそれが判断の場面でどんな表現で現れたのか。それは、清末の読書人、梁巨川が謂う、一国一家に表れるさまざまな問題は、人間の人格に起因するという東洋の人間学からして、また「因果」」の現象を、南方熊楠の説く、「因縁」に委ねたとき、歴史の流れの一粒であった登場人物を横目、覗き目ではなく、正面から直視したとき、我が国の明治の香りが同様な風となって薫ることに心地よいものがあることに気がついた。
いわゆるおもしろくて楽しい、そして好きになれる学習でもあった。
そのなかで、日ごろ些細な事にこだわって一喜一憂している吾身を、その時代に浸してみると、同じ人間でこうも違うのか、いやこの部分は同じだ、などと妙に近しい関係になったかのような気分になり、彼らの無条件で真摯な行動が及ぼした歴史の事跡に驚愕した。

登場人物の孫文、蒋介石と山田良政、弟純三郎、その甥佐藤慎一郎 後藤新平、頭山満、犬養毅など激動の日中史をいきいきとつづった日本人の活躍など普段、気に止めることのない革命史の舞台ではあるが、その構成はアジアスタンダードとして語り継がれ、民衆はその評価の決定を留め置きながら、未だカーテンコールを告げてはいない。

 ときあたかもアジア諸国を席巻している西洋式グローバルスタンダードの風は、財貨万能の気風を巻き起こし、地域特性の凝縮である深層の国力というべき情緒の融解さえ巻き起こし、まるで投網にかけられた雑魚のごとく跳ねまわっている。

 これらの状況を憂慮する人々のなかには、あこがれにも似た気持ちで再び演者の登場を促し、実直な演者のもと、明確なアジアの矜持を再現して欲しいという期待が感じられる。
ここでは取り立てて願望や哀愁といったものを取り上げるものでもなければ、“誰かがやってくれる”といった他力本願の気持ちから発するものではない。
熱狂と偏見が鎮まり公理がかたちを整え、そして恩讐を乗り越えた民族に再び縁が蘇るとするならば、アジアの中の日本人としての矜持を添えて民族提携によるアジアスタンダードの再興の一助として備忘録を呈したい。それはアジアの意思として構成すべきことであり、継承すべきことである。

 地球軸から考察しても東西文明の歴史的経過は、読み取れる栄枯盛衰のみではなく、循環する盛衰に対して補い合う東西の異なる質量という観点から、アジアの茫洋とした世界に存在する対立観を超越した無限の受容と、混沌の柔和を一方の優越した座標として掲げなければならないという使命感も芽生えた。また、そのように推察できる彼らの行動であった。
“群盲像を撫す”類いの論評は幼児性の抜け切らない知識人の専らの職分ではあるが、身じかな売文の輩や言論貴族のように、ときとして表現責任ともなう肉体的衝撃をいとも巧妙に安全地帯に回避して宴を貪るものもあれば、貪官に媚びて票田に伏す議員などは雑魚の歯軋りは届くこともない。
しかも、それらが唱える言論は、さも国家意志でもあるがごとく尋ねるものを惑わし続けている。

経済の本意である経世済民を、まるで軽世細民のごとく錯覚したケイザイや集積された富を国家のバロメーターとして、その目的を繁栄と成功にしか置かない行動と宣伝は、善良なる群盲というべき人間を多数輩出し、貴重な歴史の一章を、゛意志なき民の意志゛として糊塗し、錯誤を助長している。

ときに民衆の意図するものとは異なる軋轢や衝突を巻き起こし、アジア全体の衰亡を招いていることは他文明の意図的侵入を誘い、その意図する財貨の欲望が、まさに世界の基準であり、当然な啓示として歓迎されていることは未開の地と称された西欧のアジア観そのものであり、予期せぬ出来事の到来を危惧させる。

あえて国家主義にこだわり、アジアに閉じこもり安住すべきとは思わないが、アジア諸国が異なる環境と政治的国内事情を考慮しても、それぞれが財貨のみを繁栄の目的として他力誘引することに一喜一憂することは、標準(スタンダード)のない国家の同化現象として映ってしまう。
標準の前提に基準がある。
基準はすべてのものに合理を求めなければ成立しない。繁栄の対価とともに提唱される標準は、繁栄の意味すら他の文明に順化させなければ生き残れまい。日本が最後の列強としてアジアに進出したとき、それは大航海時代から始まった西欧の植民地政策に名を借りた夜盗、海賊の分別なきスタンダードの模倣でしかなかった。

 アジア解放という大義はあったが、皇民化、創氏改名などの同化政策は、武力が形を変えた財貨金融による欲望価値の同化にほかならない。歴史の観察はさまざまな切り口ととともに、悲哀、怨嗟という感情の読み込みなくしては尋常(平常心を尋ねる)な考察はできない。また、その影響と結果は永い時間を費やさなければならないことでもある。しかし、異なる価値に包み込まれた異文化の欲望喚起は、その地域の情緒を元とした生きる術であった自らの陋習までも捨て去っている。

 識者フランシス・フクヤマはキリスト教と儒教と対比させている。固定的観念ではそうであろう。また、部分の標準はあっても発する意志(基準)を同化するものもいることも事実だ。
 日本にも儒教学者は盲目的中国大好き人間が多いが一頃、ロシア文学に傾倒する人はロシア我が心の祖国と叫んでいた。

 老子は漠然としているが孔孟の説く儒教は知識人の看板には、ほど良い知識で間にあうという人もいる。もし文明を対比させるなら庶民感覚として西洋の「神」と、アジアの「天地自然」が相応だろう。 あえて「道教」的ともいえる。
たかだか地球上の東西南北を色分けしている話だが、自分は自らの分「全体の一部分」との認識に立って地球人、アジア人、日本人と置き所を変えると「我」とは違う「自分」が確認できることがある。

 そんな我が自分探しをするために歴史をひもとき、異なる民族に触れたり荒涼な環境に自身を浸してみたとき、はじめて自分に押し掛かっていた憂鬱と恐怖が解き放たれ“何かをしてみよう”と思い立ったなかに体験備忘のための拙書があった。
時節を違え、浮俗を錯誤したような自らの拙い視点ではあるが、妙な安堵と不完全が“生きている”感じられるゆとりがあった。そんなとき時流に媚び、情報を唯一断定的にとらえ、汲々として他者の標準というべき「理」に「合」わせているアジアの混迷に、想起すべき歴史からの提言を拙い体験として著してみたいといった動機があった。

 アジアスタンダード構築とセキュリティは、歴史の集積をひもとくことによって「人間」そのものの探求から容易に導きだせることが分かる。
人間を不完全な生物として認め、“非合理の合理”を人情によって自然界の「理」に同化させたアジア的諦観は時節の要求とともに、歴史の知恵として新たなスタンダードの構築をしなければならないことを教えてくれる。

ここで著した孫文の唱えた「三民主義、五権」もさることながら、植民地主義という大国の意図による誤った歴史の潮流に、アジアの矜持を掲げ敢然として立ちあがった明治の日本人との交流と革命の実証は、まさに芒洋としたアジアに孫文ルネッサンスというべき足跡を遺している。
人を好きになり、人に興味をもち、人に習い、学んだら行う。
そんな人間になりたいと思っていた矢先のことだった。
________________________________________
[PR]

by Ttakarada | 2007-10-30 15:24  

旭日、出ずる国より  その志、東方に嗣ぐものあらんことを

筆者について

戦後50有余年、私たち日本人はどんな明日を望んで歩んで来たのか。今日、人心は混迷し社会は荒んだ様相を呈し、昨日までの価値観はガラガラと足下から崩れて行く、そして明日への歩みを進める方向すら見定められない。私たちはこんな国になろうとして歩んで来たのか?
 
敗戦という初めて体験する衝撃に日本人は打ちのめされた。虚無感と絶望の中から私たちは経済による復興という曙光を見いだし、わき目もふらずひたすらに働いて世界第2位の経済大国と呼ばれる奇跡の復興を遂げた。ただ、そんな成功を収めていながら一方では今日の様々な問題が引き起こされた。その問題を解決するに、再び経済成長だけというアプローチでことを解決することができるのか?

 経済だけに眼を向けそのほかの事は眼を瞑って来た、終戦当時既に成人していた人達も、とにかく戦前のことは考えない、もっと言えば自分たちの歩んだ歴史そのものを考え直そうともせず、「経済的豊かさの追求」を隠れ蓑にその他のことを置き去りにしてきた。
 その置き去りにしてきたことが何であったのか、今となってはそんなことを考える事すら意識にない人が増えているようだ。戦前を見直す、歴史を見直すと言うだけで「右翼・軍国主義者」というレッテルを貼り、自分は平和主義・民主主義と言って経済的豊かさの追求こそ唯一の幸福という価値観の中に逃げ込んでいる人が多い。

 ここに「孫文の再来を請う」という珠玉の論文がある。
 1850年代にフィリピンがスペインの植民地になった時、世界地図の上で非植民地として残ったのは、日本列島と朝鮮半島それに中国大陸だけであった。次は我々と危機に敏感に反応し明治維新を成就させたのは日本であるが、李氏朝鮮は鎖国政策を続け、大陸中国は香港を植民地として切り取られたのが19世紀の終わり頃の東アジア情勢であった。

 そんな時代に敢然と立ち上がり「アジアの連帯」によって欧米列強の帝国主義を跳ね返そうと叫んだのが孫文である。孫文は辛亥革命を成功させながらその後の混乱の中で病死した。その孫文の革命に早くから行動を共にし、中国の革命に殉じた日本人として山田良政、純三郎兄弟がいた。その山田兄弟の甥の佐藤慎一郎氏は昨年94歳で亡くなられるまで東京・荻窪で健在であった。
 
この論文の著者寶田時雄氏はその佐藤氏に師事し、その身近にあって孫文のこと、山田兄弟のこと、佐藤氏自身の戦前戦中の大陸での経験から得られて来た貴重な歴史的事実を学んできた。そしてこの論文は実体験に基づいた佐藤氏の語る言葉を一種の聞き書きのようにして書き上げられたものである。

 寶田氏は「無名有力」ということを日頃から実践し、青少年や地域のために尽くすことを行って来ていますが、この論文はそんな氏の清廉な心がそのまま薫り高い文章となってもいる。
                                           

                                                蜆の会 代表
                                                    大塚寿昭

                                         (元総務相大臣官房補佐官)
[PR]

by Ttakarada | 2007-10-30 15:16  

請孫文再来

c0142134_14592072.jpg「請孫文再来」について

佐藤慎一郎氏と回顧すること30年、当初から座談、講演など同行させて頂くなかで、氏の叔父、山田良政、純三郎兄弟と孫文の革命交友と、そこに醸し出される明治の気概は、江戸末期から新時代に向かう日本人の実直で、かつ異民族に普遍な精神として継承されたものであった。その熱情に亡くなる直前まで抱えられていた自分があった。

時を同じくして戦後の満州人脈と言われた笠木良明氏を慕う方々との縁や、また漢学者安岡正篤氏の縁から日本の主導的立場にある方々との交誼を、両氏の傍らにおいて観察もしくは厚誼に預かったことは、その後の思索、備忘録作成に特異な姿を残したようだ。
それは浮俗の観察とは異なる意思として頭をもたげてきたことでもあった。あとがきは革命余話に交流抜粋を記している。25歳からの縁ではあるが、相手は70,80,90の高齢者である。さまざまな場面での勇み足を拾ってくれたりもした。
また、眼前の若僧に向かって自身に刻まれた満州残像などを、時を忘れたかのように語ってくれた。

いまでも秘匿しなければならない事柄もある。それは記者の追及や、研究者の質問ではない。茶飲みや、酒の肴のような孫の話し相手のようなもので嘘は無い。大変なことだと知ったのは大分、後のことでもあり、時系列の整理もそうであった。

その結果、佐藤氏の20数年に及ぶ激動期の中国経験、それは従来の死生観を変え、より柔軟な天地の思想である老子の風であり、安岡氏の日本独自の武士道や、古代から続いた綱維を王陽明、孔子にその活学の基とした、まさに剛柔表裏を交互に併せ持つ両碩学の狭間で得意し、あるいは複合物というべき変異な思索が、薫醸された学問として浸っていたようだ。

佐藤氏からは、「人情、国宝より重し」「利は義の和也」「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿より始末が悪い」と経験に裏打ちされた実学を、また安岡氏から「君は無名で有力がいい、そして郷学の作興だ」「文は巧い、下手が問題ではない、百年、二百年経っても君の至誠が通ずるものを遺すべきだ、時流に迎合する売文になってはいけない」と。
まるで、身内の息子なら耳をそむけるような内容だが、孫のような、しかも無名浅学な小僧に一生懸命、諭していただいた。それも時を違えて交互にである。
ときには赤尾敏氏や安部源基氏や、その人脈にある方々も交じることがあった。

佐藤先生はビールと煎餅と奥さん、一方、安岡先生はピース缶の両切り煙草に羊羹、浮俗の増幅した煩いを避けた両氏との香りある世界だった。
両氏は日光の田母沢で安岡氏が主宰する全国師友研修会で同席することがあり、また安岡氏が都内でおこなっていた虎ノ門教育会館での講話にも佐藤氏が代講している。
田母沢では研修後の懇談、いわゆる酔譚が恒例となっている。通常だと安岡氏の独断場の様相だが、佐藤氏が参加した懇親会では、佐藤氏の独断場で、安岡氏も愉しんで輪に慣れ親しんでいる。
佐藤氏のそれは、いわゆる中国の、゛Y学?゛を交えた知恵であり、天地自然に遵って生きる大陸民族への炯眼である。天衣無縫な佐藤氏のこと、中国の市井にある人々との楽しくも生きた話題が多く、なかなか就寝しない御両人に側近はいたく困惑していた。
両氏に共通しているのは、「貪らざるを以って、寶と為す」であろう。今時のやせ我慢ではない。名利冠位のはかなさを文明の栄枯盛衰に映る人間の所作に観て、国家社会に言論と行動、教化によってその姿を為していることだろう。

そのなかで拙書「請孫文再来」があった。革命家にありがちな毀誉褒貶の批評をこえて、明治の日本人が呼応した史実のなかで、登場人物の息と熱と伸吟を忘れまいと記してみた。両氏に面白い奴だと言われれば本懐だが、アジアの意思は伝えなくてはならないだろう。四方八方から熱狂と偏見が降り注ぐが、鎮まりの中で備忘、いや秘匿しようとした、いいハナシだったが、運悪く・?大塚、伴、両氏に発見されてしまった。

佐藤、安岡、両先生、いや登場人物がこの所業をなんと観るか、恥ずかしい限りである。題は孫文のような人がいま居たらどうだろうか、そんなメッセージを出せる指導者が中国にいたら、アジアはどのように変わるだろうか、そんなことを佐藤氏に語るとき、決まって、「孫文は歴史の必然である、検索研究ではない、アジアの情緒なんだ」 「また、いつか役立つような、時代を超えた普遍性もある」と説かれた。

もちろん、革命家にありがちな後世の口舌家のいう、大法螺吹き、浪費家、詐欺師、小心、女色などの評価損?はあろうが、朝野の日本人が呼応した当時のアジアの実態は、現在評価に比べるものではない。なぜなら肉体的衝撃はその場に居たものだけが知るものだからだ。
拙書は、そんなおせっかいな夢を残している人たちによって世間の目に触れた。
いつの間にか、一人歩きをしているようだ。両先生やそれにかかわる縁者から、゛えらいものに手を出した゛、と笑われそうな表題の願いでもある。
[PR]

by Ttakarada | 2007-10-30 15:02