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満州と孫文


後藤新平に観た孫文の日本人観 

 山田純三郎の兄、良政は
「男子事を謀る。中道にして廃すべからず。まさに最後の一戦 を演じて止むべし」と語って慨然として職を投げ棄て福建省の彰州に向かっている。
 
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上海から弟、純三郎に宛てた手紙にあるように自らを鼓舞し、アジア復興のために中国革命に靖献した良政は、自らが革命の運命を導き、自らを一番理解する孫文のために命を賭けて行動すれば鬼人もこれを避け、必ず成功するという気概があった。

 しかし、怒声を発して人を威圧したり、他人を扇動したりする策もなく、沈着冷静にして人の心を真義に導くような人物であった。良政は自らの縁を革命の一助にできればと、伯父、菊地九郎の回顧から後藤新平に革命の助力を懇請することを思い立った。
 
当時、後藤は満鉄総裁を経て台湾総督府の民政長官をしていた。
 そのころ孫文は恵州で挙兵するため、各方面に援助を請いながら準備を進めていた。一方、フィリピンのアギナルド将軍は孫文と同様に明治維新に触発されていた。アギナルドとは武器援助などの面で協力関係にあったが、それでも革命に必要な武器が不足している孫文は、山田を通じて台湾からの武器援助を交渉させている。良政にとって後藤は一面識もない人物であった。
 
そこで佐藤の口述から記してみよう。
「九郎伯父さんが、明治5年に弘前で東奥義塾を創設したとき、まず行ったことは外人教師の招請だった。弘前は薩摩と同様に日本列島の南北の両藩は中央権力から遠ざけられていたが、日本の北端といっても昔は蝦夷、樺太から凍結を待って徒歩で大陸に渡り、ロシアと交易を行っていた。薩摩は南端にあっても、沖縄、ルソンを通じた南方交易で、アジアを影響下に置き始めた西洋列強と接触し、さまざまな文化交流に伴って起きる危機意識の覚醒を促していた。これに比して江戸幕府が行う鈍重ともいえる対外政策に疑問をもち、明治維新を促す動機を育んでいた。
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弘前城内 菊池九郎顕彰費

 津軽藩の弘前では幕末の漢学者、伊東梅軒の旧宅に今でも遺されている「松蔭室」で経国を論じた吉田寅次郎(松蔭)は津軽海峡に進出してきたロシア軍艦の視察に訪れている。このように阿片戦争から生じた香港割譲や江戸に到来したペリー艦隊の情報、そして北方を脅かすロシアの動向は、北端の津軽藩だからこそ収集できる情報として後の維新の混乱を回避できた一因でもあった。
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伊東梅軒の孫 伊東六十次郎氏

 九郎伯父さんは東北での奥羽列藩同盟の津軽藩の使者として庄内藩に赴いたんだが、津軽藩が直前に同盟を回避したことに義憤を生じ、戦闘同盟の違約を自らの身体で果たすべく庄内に参じたわけだ。そんな伯父さんの気質からすれば、薩軍の総大将だった西郷隆盛が庄内藩に与えたとてつもない度量に感動して、薩摩の「私学校」に向かわせたのは当然ともいえる行動だった。もともと熊本の菊地家の系図をくむ九郎伯父さんのこと、気概の同感というべきものだろう」


 ◆菊池九郎の人間教育
 
佐藤は幼少のころ一緒の蚊帳で寝起きした九郎の慈愛の心情を思い浮かべるように語りをすすめる。
「維新の混乱は、山背の風といわれる追木山(岩木山)の寒風にさらされた津軽平野をおそった凶作とともに、人心の疲弊まで巻き起こし、ややもすれば閉鎖的といわれた民情を、より暗いものにしていた。いつの時代でもそうだが、天を恨み、政治を批判する、まるで生きる目的さえ無くしたかのような状況の中で、伯父さんは「人間がおるじゃないか」と独り決然として人間教育の行動を起こしたのだ。

 手始めに明治5年、東奥義塾を創設して外人教師の招請を行った。伊東梅軒の儒学、北前船による北陸、京都の影響、そこから生ずる剛直さと、しなやかさの調和、そして米国人教師から得る最新の知識と情報、そして見逃してはならないキリスト教の影響だ。弘前には洋風建築物とともに、いたる所で当時としては珍しい西欧の最新文化があったんだ。

 当時、日本各地にみられたさまざまな拙速な影響ではない。津軽人が育んだ伝統文化と人間教育のための根本資質の涵養があった。
 津軽武士の残像が相まっての気骨が明治人の気概や器量として培われただけではない。南端の薩摩、四国の土佐、日本海側の萩、小浜、越後長岡と変革期の逸材の輩出とともに、津軽人の北端からの南下、あるいは海外飛躍への行動力として発揮されたのだ。外国人教師の招聘は語学力の目覚ましい向上を果たし、また教師の見識から学ぶ、海外においての人格価値の共有という自信が、よりその行動を促したといえる」


 ◆ユング教師の伝えたアメリカとリンゴ  

津軽を懐かしむ佐藤の言葉は"人間至る所、青山あり"といった地球上のどこにわが身を置いても時流に迎合せず自らを見失わず、しかも衆を頼まぬ「孤高の憂国」といったものを感じさせるものだ。
「ユングという教師がいた。ユングが語学授業の合間に語る米国の思想や民情は、生徒の感動を呼び起こし、ときに忠孝の話になると、一同、感涙し戦慄といった状態がしばしばあった。
 


りんごの原木c0142134_1948918.jpg

来日のときに大切にもってきた米国リンゴの苗木は、その後の津軽の殖産事業として立派に役立っている。その原木はわが家の前にある。余談だがそのリンゴの育成方法を教えてくれと長野から来たが、なかには小心者がいて『せっかく儲けられるものを教えられない]』と追い返してしまった。
 それを聞いた弘前の樹木というところに住んでいた外崎政義が烈火のごとく怒り、時には偏狭な津軽根性を戒めたのだ。リンゴで興き、リンゴで滅ぶ津軽魂だよ」
 
 郷里 津軽を慈しみ、ときとして津軽人を憂うる佐藤は、つねに弘前は日本の一部分、日本はアジアの一部分、アジアの安定は世界の平和だと語った。4人兄弟のうち2人は米国へ、良政と純三郎は孫文の革命に挺身している環境の中で、自分という"自らの社会の中の分(ぶん)"を自身の行動で探し、次の世へ遺す啓言でもある。

「そのユング先生が来日するので江戸(東京)へ迎えに行くことになった。当時、海路もあったが、奥さんが船酔いに弱いというので東北道を使うことになった。江戸まで25日余り。弘前を発って今の岩手県の水沢を過ぎたころ、一人の少年が九郎伯父さんに添って歩くようになった。事情を聞いてみると、学問のために須賀川まで行くという。道すがら学問の話、世界情勢、日本の進むべき道、そのためにどんな学問をしてどんな人間になるか、といった話だったが、歳は違えど"切れのよい呼応"での問答があった。その少年が後藤新平だ
 

◆後藤新平に採用された純三郎


 その後藤には純三郎も縁がある。大陸へ行って満鉄に入りたいと考えた折り、伯父九郎にその事情をはなして後藤に縁をつないでもらおうと思い面会にいったことについて後藤という人間についてこう言っている。
「後藤という人物は誰々の紹介などというとなおさら採用などしない。それより目的と意志と完遂する勇気を見せることだ」
 純三郎が面接に行くと九郎伯父さんが言った通りの人物だった。寡黙な良政とは異なり、応答辞令の長けた純三郎が面接採用後に伯父との関係を伝えると、後藤は生涯、師と仰いだ菊地九郎との回顧を懐かしみ、その甥純三郎との縁の感激に浸っていた。

 良政の後をうけ革命に挺身する純三郎は、自身の身分である満州鉄道株式会社の社員として業務履行の妨げになると上司に上申したところ
「満鉄の社員は何人いる。その中に満鉄のために働く者も大勢いる。国のために働く者もいるだろう。しかし、日支善隣友好のため、ひいてはアジアの安定のため行動しているのは何人いる。満鉄のことなど気にすることなく一生懸命やりなさい」

 純三郎はそのあと、給料が増額されたのに驚いた。後藤の器量が委ねた大きな希望の意味に背筋が凍りつくような感動を覚えたことは言うまでもない。孫文が日本人を語るとき、つねにその後藤を懐かしみ、後藤に真の日本人の姿を認めた心情が山田の口から語られる。

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津軽の冬
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by Ttakarada | 2007-11-11 19:56  

老 朋 友 


◆桂太郎との会談
 
山田は自身の臨場体験を踏まえ、孫文と日本人の交流を語っている。
 このことは山田の甥、佐藤慎一郎が山田から直接聞いた事がらを「孫文をめぐる日中秘話」に著しているので参考としたい。

 臨時大総統を辞任した孫文は「全国鉄道計画全権」という名義で1913年2月10日、上海をたち日本に向かいました。随行者は戴天仇、馬君武ら5名の中国人と山田純三郎たちでした。14日の新橋駅では犬養毅らが出迎えています。とくに中国人留学生3000名の熱狂的な出迎えに駅周辺は身動きもならないほどでした。

 孫文一行は、帝国ホテルに宿泊、日本政府が孫文にやや好意を示したのは、後にも先にもこの時たった一回きりでした。
 孫文は今回日本を訪問した真意は、清朝を倒すことは成功したものの軍閥、袁世凱を倒さぬ限り革命は成功したといえず、何としても日本の援助を取り付けて袁世凱を打倒したいということにあったのです…

 2月15日、東亜同文会名義で後藤新平が孫文を歓迎しています。孫文はスモーキングルームで内閣を辞職したばかりの桂太郎と密談しています。同席したのは戴天仇、山田でした。
 戴天仇はその著「日本論」の中で『中国で排満革命が成功したとき、彼(桂)はわざわざ中山(孫文)先生のところに使者を送り親近の意を表している。中山先生の日本訪問に際しては、たまたま第三次内閣の総理であったが、彼は密かに孫文先生と二回にわたって会談している…』と密談の内容の一部を伝えています。

 ところが何故か、その密談の真相については伝えていないのです。
 その真相については同席した山田が次のように語っています。しかも私(佐藤)には何度となく語っています。それだけ両者が胸襟を開き、日中の招来を語り合ったことが分かります。
「自分は孫文先生、戴天仇と一緒にスモーキングルームで桂公(桂太郎)に会ったが、その時、桂公は日本の人口問題に就いて切り出している。『現在、日本の人口はどのぐらいと思われるか、あるいは年に何人づつ増えているかご存じか』とか問うている。
 
そして桂公が『この狭い日本では、今後20年後、50年後にはどうなるだろうか』と言ったとき、孫さんはそれに答えず、立ち上がってぐっと手を差し伸べて桂公と長い間、無言の握手を交わしていた。それが孫さんと桂公の初めての会談で、非常に劇的といってよい感動の場面であったことを、はっきり記憶している。
 
孫文の満州についての提案

第二回の会談には同行しなかったが、その時の話を後で戴さんに聞き、孫さんに確かめたところでは、孫さんは桂公にはっきりと提言したことは

『日本が将来、生きて行く道は満州でしょう。満州は日本の力で開発し、理想郷、模範国にしてもらいたい。しかし主権は侵させない。帽子だけは支那の帽子です。そして最終的には日本の国情が許すなら、日本と支那の両国は国境を撤廃してでも共に生きましょう。そして、一方ではロシア勢力の南下を押さえて白人の東亜侵略に備えようではありませんか』と日支百年の将来にわたる大経綸に関する提案をしている。

 それに対して桂公は「私がもう一度、天下をとったなら、孫さんとの約束を必ず実行に移そう」と堅い約束を交わしています。山田はこの話をするときに必ず「どうだ、孫さんの大きいこと」と言うのが口癖でした。

 孫文としては日本の援助によって、どうしても袁世凱を倒し、中国の統一を図りたい。その代わりに中国も日本の満州における特殊な地位を尊重しよう。そうすれば日本としても国防問題、人口問題など解決ができるのではないか。 c0142134_1352555.gif
 このような考え方をもっていたのだと、山田は明確に何度となく語っています。
 興中会の誓詞には「韃靼、韃虜を駆逐して中国を回復して合衆政府を創立する。もし二心を抱くことがあるかどうか、神よ、はっきりと御照覧あれ」と宣誓している。当時、孫文にとっては漢民族の回復を大前提として、万里の長城以北は我関せずの心境であった。

 その後の下田歌子や三井財閥の森格らとの援助を前提とした満州問題に一つの筋道をつける事として明記されるだろう。 c0142134_1358457.jpg
【石原莞爾】【張作霖】

 しかし孫文は臨時大総統就任の宣言文の中で初めて「…国家の本は人民にあり、漢、満、蒙、回、西、を合して一国を為す。漢満蒙回西を合して一人と為すが如し。これを民族の統一という」とこの時初めて満州の主権を主張したのです。この宣誓文が書かれたとき、孫文はハワイに滞在していてこれを知ったと山田は言っています。
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by Ttakarada | 2007-11-10 14:07  

山田純三郎

山田純三郎

 
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疎んじられても期待をせざるを得ない状況と、なお警鐘をこめて熱情を注ぐ孫文の心には、多くの日本人との人格を認めた交流があったことを山田は、兄・良政の言葉とともに述べている。

「自分が孫さんの意志を頭でなく身体で理解し、ついて行けたのは上海から送られてきた兄の手紙だった。純コのバカと通称され、意気地なしの自分を激励し誉めてくれた九郎爺さんのお陰で、いくらか世の中に慣れてきたときだった。そのときの兄の手紙が、その後の自分の生涯が決定づけられたといってもいい…」

 幼少から同じような環境にあった佐藤慎一郎にとって、山田の話が手に取るように理解できる。佐藤も蚊帳のなかで菊地九郎と寝所を共にして得た、言うに言われぬ九郎爺さんの暖かみは、純三郎の思いと同じように生涯を決定づけるような無言の教訓だった。

 佐藤とて十幾つまで寝小便が治らず、自らを嘆いて親類の伯母の家に放浪し投宿している。
 菊地九郎は幼い慎一郎に優しく諭している。
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「慎坊は体が丈夫ではないから大きくなったらベコでも飼って生活したらいい」
 その後の師範学校当時のエピソードを語る慎一郎の成長は、まるで伯父、純三郎の幼少時、純コの馬鹿といわれた山田と似て、いかに九郎爺さんの存在が無形の影響として偉大なものであったかを、後の成長と両者の人生観の基として表している。
「それで、上海からの伯父さんの手紙の内容は…」
 山田純三郎は当時を思い起こすように、慎一郎に聞かせた。

兄良政より弟純三郎への手紙


「明治12年6月15日に書いたものだ」 c0142134_854059.jpg

 山田はそういって大事そうに何度も読み返された手紙をひろげた。

『初志貫徹、最初の志を枉るな。屈するな。やれるだけ実行することが大切だ。卑屈なことや、下賎なことに目もくれるな。大丈夫たるものは困難に困難を重ねることによってこそ初めてモノになる。女々しい心など出さずに、志を堅固にもち続けることこそがいちばん大切だ』

『たとえ、希望の彼岸に遠くとも志の一字さえあれば金石のような硬いものでも、ついには射貫くことができるだろう。大丈夫の尊ぶところは一つの志だ。志なるモノは人が教えても得られるものではない。自分自身のこころに発し、自分自身を奮起させてこそ、はじめて志しなるものができあがるのだ…』

 
山田も人間の価値として、ないよりはあった方がいくぶん重宝というぐらいの、地位、名誉、財力、学歴といった付属性価値よりも、革命のように土壇場の人間力や、なによりも大切な異民族に対しても、分け隔ての無い普遍な精神の醸成を理解するのである。
 山田は甥である慎一郎に伝え聞かすように語った。

「手段や方法ではない。人間の根本を兄さんは教えてくれた。子どものころ唐詩選の歌カルタをやるたびに何時もたしなめられた。だがその時とは違った自分を人間として認め、激励してくれた」

「何をやれ、どうしろ、といったこまごました指図はなかった。それは慎ちゃんも知っているだろうが、風で落ちた売り物にもならないリンゴを馬市に売りに行ったときに、九郎爺さんから、『純コ、おまえは勉強が好きではなく本も読まないが、一銭一厘まちがいなく届けてくれる。これは嬉しいことだ。人間というのはそういうことだょ』と、言われたことと同じで、自分の人生に終始、忘れずもっているものだ」 c0142134_813533.jpg
〈弘前城内菊池九郎の顕彰碑〉

「孫さんにも叱られるし、人生、叱られ、激励されながら生きてきたようなものだ」
 佐藤は、改めて自身の体験をとおして自得した精神の重要さを、山田の言葉によって再確認した。身内について語ることをはばかる佐藤だが、後に、あえて次世への提言として山田についてこう記述している。

『…純三郎は何事も、その解決のみちを他人に頼らず、自分自身に求めています。自ら苦難の道を求め、からだごと真っ向からそれに立ち向かっています。自分自身の可能性に挑戦していたのでしょう。しかも、他人が一度でできることを、純三郎は5回、10回とそれができるまで何回でも繰り返すことによって完成させています。純三郎にできたことは、ただそれだけでした」

「純三郎は逆境、苦難のなかにおいてこそ見捨てることのできない、いとおしい自分を発見していたのでしょう。だからこそ、純三郎はそうした苦難に耐え抜きながら少しづつ成長したのです。苦中の苦を経るたびにこそ、たくましい青年に育っていったのです。純三郎が南京同文書院第一期生として上海にわたったのは明治32年8月、23歳の時でした」

「機関車の掃除夫を辞めて、天下を大掃除しようとしたのでしょう。 『大丈夫たるもの、四海に志せば万里なお比隣のごとし』。純三郎にとって中国大陸の上海も、隣家のように近かったことに違いない」
 
佐藤は自らの気骨、気概を投影するように山田を語っている。時を違えたが、“純コ”“慎坊”と呼ばれた幼少時の愚鈍な少年が、ともに九郎爺さんに抱かれて見た夢は、先導役である兄良政の鮮烈な行動によって結実し、兄が身をもって示した死よりも崇高な精神の価値としての孫文の志操を伝播、継承することで開花したのです。
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蒋介石は革命の先輩である山田純三郎の死に当って献書している

山田純三郎先生記念碑(意訳)c0142134_821481.jpg

末永く、風義を懐う 〈風格、威〉
 蒋 中正 題す
山田純三郎先生墓碑

中国の国民革命が艱難辛苦とともに奮闘している時、革命党は、日本の友人山田良政とその弟純三郎の多くの助力を受けました。
山田良政先生が、恵州の役において、義侠的な使命に赴いて戦死した時、国民党の總理孫中山先生は、二度文章を作り同時に墓碑に親ら書いて、山田先生の人道の犠牲、亜細亜州の先覚者であることを誉め称えた。
その後山田純三郎先生が世を逝ると、国民党總栽 蒋介石先生は、彼の為めに記念碑に題して`永く風義を懷う´と云い、それによって彼の革命的道義を記念し、しかも末永く誌して忘れないようにした。
山田家一家は、その兄と弟と同じように苦難を共にしており、同じく忠義の模範となる。鳴呼、なんと賢いことであろう。
            中華民国陸軍一級上将 何応欽 敬撰並書

中華民国六十四年三月二十九日(1975年、昭和50年。`三月二十九日´は、旧暦。新暦では、4月27日)。黄花崗起義紀念日(1911念4月27日、明治44年4月27日、黄興が黄花崗で義兵を起こして、督署を攻めた紀念日)
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by Ttakarada | 2007-11-09 08:27  

 期待と批判


 ◆孫文に生じた対日観の二重性
 

 革命のさなか孫文は、幾度となく訪日し、永いときには2年数カ月にわたり滞在している。革命期間の三分の一を日本及び日本人とのかかわりの中で、期待と失望のときを費やしている。それは、ある意味で対日観の二重性を生じ、矛盾した言動とみられたこともある。
 
その間、財閥、政治家らの対支那利権に翻弄されたり、日本国内の政治状況に左右されたりしたこともその要因であり、もちろん支那の国内事情のなかでの大きな障害であった袁世凱の動向が日本の対支那政策にあたえた多大な影響と、アジアに対する遠大な志操や国策もおぼろげな日本の指導階級の見識不足がその混乱を助長させていた。

 孫文自身も現実の支配者、袁世凱の勢力および力の認識とともに、他方、中国鉄道督弁として、その計画遂行の先駆者としての理想追求の狭間に活路を捜し求めた時期があった。革命指導者に重要な現実認識と能力査定、そして将来の推考という平衡感覚は、つねに冷静な客観視がなければできないことだ。また革命の大義というべきものの裏付けも重要なことでもある。

 13歳から5年間にわたる西欧的環境での生活は、現在の東西価値混交とは違い相当のギャップとして、あるいは理解の端から感動感激として染み付いている。
 思春期の影響は、より一層アジアの混迷を際立たせ、その自覚のもと支那人孫文として、背景にある文明の違いと優位性を明確に唱え、アジア民族の奮起を促している。その一歩は列強によって分断されたアジアを、日本の力を梃子に再興しようとすることでした。

  しかし日本の近代化は東洋的観念から逸脱し、西欧の模倣こそがその目標とばかりに邁進し、維新の原動力だった列強への危機感をあえて衰弱するアジアに対して矛先を向けたのだ。その意味で西欧スタンダードというべき近代化の基準に対して、孫文は日本に繰り返しアジア基準の再考を促した。その意志は、現代にも当てはまる問題提起である。アジアの西欧に対する功利覇道的考えの懐疑をみれば、東西ダブル基準の明確化と調和を唱えた先見性でもある。
 
◆犬養毅宛の孫文書簡

 孫文は1923年11月に犬養毅宛の書簡を山田純三郎に託している。三日三晩を費やして作成した書簡は、妻、宋慶齢の助力によって幾度も読み返され、訂正され、孫文の対日意志の集大成となるべきものであった。
 山田の甥、佐藤慎一郎は未修正の原文を渡され、修正後の文章とともに翻訳している。
 山田は言う。
 孫さん最後の書簡は犬養さん宛のものだ。最後の書は船上で自分に託した『亜細亜復興会』、最後の演説は神戸の女学校での『大亜細亜主義』を唱えたものだ。全てが日本および日本人に向けられたものだ。
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 そして孫文は口癖のように

『あの明治維新を成し遂げ、西洋の列強との戦いに勝った日露戦争は亜細亜の抑圧され、虐げられた有色人種が日本をアジアの光明として迎えたものだ。私もそれに感動し、触発され革命を蜂起した。しかし、その日本はことごとく我が国の革命の障害となっている。日本には真の日本人がいなくなった』
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と嘆いていた。 
 
だが一方では期待をもっていた。日本の満州経営とロシアの南下について語った桂太郎や兄・山田良政との縁で革命に助力した後藤新平、命がけで孫文の上陸を扶けた頭山満翁と犬養毅、神戸造船所長の松方幸二郎、そして兄・良政をはじめとする朝野、在支那の同志たち。そんなアジアの中の日本を自覚した真の日本人がいなくなった。
 それは孫文の指摘を待つまでもなく、歴史の経過とともに衰退する人間の徳性資質そのものの問題でもあり民族を越えたアジアの行く末を暗示するものであった。

 識者、景嘉は清朝の知識人梁巨川の遺稿録でこう述べている。
 …世界で発生するあらゆる問題、国際間で起きるあらゆる問題、および一国、一家に生ずる一切の問題は、実は人の問題から切り離せないということである。
 そして人の問題とは、とくに東洋の伝統が主張する人格の問題がとりわけ重要である。人心、人格、信義の重要さを知り、とくに精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負と己を偽り相手に従うことの不可、強いて相手を従わせることの不可を、心の深奥な所で反省することである。…
 数百年にわたって満州族の清朝に支配された漢民族の嘆きか、反骨かととらえられなくもないが、事象の根幹に人間が介在するものであるなら、まず人格識見の涵養が重要だと説いている。

 西洋の覇道と比し、東洋の王道の優越性を唱えた孫文の意志である。しかも、感動と感激を通じて学び実践しなければならないと景嘉は続ける。
 もちろん孫文は革命の成就が日本の政策いかんにあると断定しているのではない。期待のあまり、その大局的なアジア観や、抑圧された民族から期待され増幅された救世主となった日本に、反面批判と警鐘として唱えたのだ。

 それは犬養に宛てた書簡にも読みとれる
…貴国の対支行動も、従来は列強の鼻息を仰いで、中国および亜細亜州の各民族を失望させていることは非常に失策でありました。
 このたび、先生が入閣されましたので、必ずや列強追従の政策をやめ、新たな旗印を樹て、亜細亜州の各民族が渇望している気持ちを慰めていただけるだろうと思います…。
 犬養さんに出した文章にはないが佐藤が山田から預かった原文にある文章を参考に記すと。

 もし、そのようなことになるならば、日本はその増加する人口を容れる拓殖の地がないということなどは、心配する必要などないでしょう。私は、南洋の島々および南アジアの各国では、必ずや日本をその救い主として歓迎することになるだろうことを知っています。
 もし日本がアジア民族を扶けることを志として、武力的な欧州帝国主義の動きに追従することを止めるならば、アジア民族は日本を敬慕し、崇拝しないということはないでしょう。

 最も重要で、列強の競争に関すること、最も激しいのは支那4億の人々です。列強の中にはこれを独占しようとした者があったのですが、他の強国に阻まれ、ついには支那分割を謀る者が現れるようになったのです。図らずも、たまたま、東亜の海の果てで立ち上がったため、その分割の謀も遂行することができませんでした。

 この時、支那4億の民とアジア各民族は、日本を救い主と見なさない者はなかったのです。しかしアジアの民衆の期待とは異なり、日本には遠大な志と高尚な政策はなく、ただ武力的な欧州の侵略的手段を知るだけで、ついには朝鮮を併合する挙に出て、アジア全域の人心を失うようになったのは、誠に惜しむべきことでもあります。
 『その心を得る者は、その民を得、その民を得る者は、その国を得る』といっています。そして、それを翻然として悟り、異民族を遇する度量と勇気がなければ…アジアの人心は必ずや赤露に向かって行くことでしょう…アジアには弱いものを救い、傾いているものを扶けようと、義によって言論を主張する国はないのです。だからして赤露に望みをかけざるを得ないのです。

 戦争について
 そもそも将来の世界戦争はと、言うものの多くは、必ず黄色人種と白色人種の戦いになるとか、あるいは欧州とアジアの戦争であるとか言っておりますが、私はあえて、それは違う。それは必ず公理(一般に公認される真理、道理)と強権の戦争であろうと断ずるものです。
 列強については(犬養書簡にない原文より)

 欧州においては、ロシア、ドイツが虐げられているものの中堅であり、英仏および米国は、あるいは横暴者の主流ということになりましょう。アジアにおいては、インド、支那が虐げられている中堅で、横暴者の主流は、また同じく英仏、米国であり、あるいは横暴者の同盟者となるか、あるいは中立の立場をとって、必ずしも虐げられているものの友人とならないことは、断言することができます(日本を暗示)。
 ただ日本は、まだ未知数の立場にあり、虐げられているものの友となるか、それとも虐げられているものの敵となるかは、先生が山本内閣において行うことができるか否かによって定まることと思います。
 このことがかなうなら、将来の世界戦争に準備しなければと説いている。

 ◆孫文が説く日本のアジア外交の指針

 佐藤慎一郎は、時節が流れようと孫文が説く日本のアジア外交の指針は、現代日本人が錯覚した歴史観では、到底答えが出ないとおもわれる問いに啓示として映るという。
 列強は支那をもって日本を制し、必ず日支親善は永久に期待できないようにさせ、しかも日本経済は必ずや再び発展することは難しくなることでしょう。欧州列強は、大戦以来すでに帝国主義を東亜に推行する実力はなくなりました。しかしながらその経済基盤が支那にあるものは、すでに非常に強固なものとなっています。

 それで、もっとも心配なことは、わが党の革命の成功は、彼らに不利をもたらすことを恐れているのです。
 列強の深謀遠慮は実に日本を目標としています。 だから色々な名目を作り出して、日本が彼らと一致した行動をとって、支那に対せざるを得ないように、させているのです。日本の支那における関係は、その利害はまさしく列強とは相反していることを知らないのです。およそ対支那政策で列強に有利なものは必ず日本に害があるものです。

 日本の致命的な政策的習慣を指摘して
 日本が事ごとに、みな列強の主張に従わざるを得ないのは、当初は孤立していて、しかも敵対することができないので、敢えて頭角を現して、列強と対抗して譲らないといった態度はとれなかったのですが、それが習慣となってあたかも当たり前の事だと思うようになったのです。今や時が移り、勢いが変わったのに、なお計画を変えることを知らないばかりか、一層、醜くなっており、ことごとに列強の片棒をかついでいます。支那の志士たちが、日本を痛恨に思うことが列強に対するよりもひどいのは、そういう理由なのです。
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 アジアの将来を推考して(草稿では)
 思うに支那革命がいったん成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータン等の諸国は必ずや、もとのように中国の藩屏として付属することを願うでしょう。しかも印度、アフガニスタン、アラブ、マライなどの諸民族は、必ず支那の後塵を歩み、欧州を離れて独立することになるでしょう。
 
…このようなことになると、欧州の帝国主義と、経済侵略は必ず失敗することになるでしょう…。ところが日本政府はこのことを察する事なく、これに引きずられて反対しているのは、自殺と何ら異なるところがないのです。
 もともと明治維新は、実に支那革命の前因であり、支那革命は実に日本の明治維新の後果であり、この二者は、もともと一貫したものなのです。 それによって東亜の復興を図ったならば、その利害は同じことなのです。

 日本はどうして欧州に追従し、我が国を嫌い、我が国を害するのでしょう。日本が国家万年、有道の長期基本計画のために、もし支那に革命の発生がなかったならば、日本は提唱してこれを誘導すべきであることは、ロシアが今日、ペルシャ、印度に対しているようなものです。
 従来、徹底的に自覚して、毅然決然として支那革命を助け、日本を東亜に立国するものとしての雄図を計ったことは、いまだかってありませんでした。これは独り支那のための計略ではなくして、日本のための計略でもあるのです。

 この書簡には日本の対アジア政策の曖昧さを指摘し、抑圧民族のおかれている状況に目を転じ、理解を促し、その結果、赤露に向かわせる理由を説明している。そこには、1906年(明治39)ロシア革命の領袖ゲルショニと牛込で行った会談とは異なり、孫文の対ロシア観の変化がみられる

 ◆孫文が描いた満州経営の展望


 ゲルショニが中国革命成功の暁にはロシアの革命を援助してほしいとの答えは「万里の長城以北は関知しない」ということだった。
 当時の孫文の意識の中には万里の長城以北は漢民族の勢力圏ではなく、対ロシアの間断地帯として日本に地域建設を委ねつつロシアの南下を押さえるといった考えがあった。歴史上、軍部の独走や満州建国という面が強調されているが、戦後の発掘資料や山田純三郎の証言にある武器や資金の援助と引き換えに三井財閥の森恪による買収計画や、下田歌子と会談での同様な話とは別に、孫文自身が当時描いていた極東アジア、満州地域の考え方は革命成功のための一過性の約束とは異なった日中提携をもとにしたアジアの将来展望であったはずだ。
 頭をもたげた日本の偏狭な権益主義は世界の中のアジアという観点を考慮することなく、支那の歴史上、希有な指導者の提言に耳を貸すこともなく、逆に誠実な心を終始、落胆させる政策をとった。

 近代のアジアは狭い範囲の思惑に一喜一憂し、恩讐まで積もった日中両国の分断を意図する西欧列強の画策に翻弄され、その影響を受けるアジアの混乱はいまもって続いているのが現状である。一時期の政策的失敗による衰えはあったにしても日中が胸襟を開いてアジアの大経綸を描けるとしたら「世界史上稀にみる一大勢力になるだろう」ことを孫文は予言している。

 それは後に述べる桂太郎との会談の一部を山田が語っていることでもわかる。
 当時は地政学的にも南下政策を唱え、民族感情からいっても「大鼻」(ダービー)といって好感情を抱いていない中で、なぜロシア寄りの考えを書簡で伝えようとしたのか、受け取り方によっては、犬養を縛り、自らを窮地に追い込む政策の披瀝は、まさに政治家としての孫文のロシアカードであり、ボロジンを代表とするロシアの対支那政策の効果とみることもできる。犬養ならずとも親露容共の考えをどのように判断したらいいか苦慮するだろう。

 それは以前、大正2年に来日したおり、神田青年会館における留学生の歓迎会の席上で、国際情勢を分析してこう述べている。
 「今はロシアと親善すると蒙古がやられてしまう。それでもさらにロシアに近づくと中国国内18省はやられてしまうだろう…」(国父全集3巻114頁)
 このように当時、袁世凱が結んだ中露協約や親露防日政策を批判している。

 書簡では続けてこう述べている。
 日本の立国の根本は、ソビエト主義とは同じではない。だからあえて承認することはできないのだから、といいますが、これは真に見識の狭い議論です。そもそもソビエト主義とは孔子のいわゆる『大同』なのです。

 孔子は、大いなる道が行われていたころには、天下は公となし、私するようなことはなかった。賢いものを選び、有能な人を用い、人は互いに信じあい、憎しみ合ったことはなかった。 老人は安らかに生涯を終えることができ、若者には十分活躍する場所があった。幼いものはすくすくと成長することができ、老いて妻もなく、また夫のないものも、幼いとき父がなかったり、年老いて子の亡い者も、不具廃疾のものも皆それぞれ生活して行くことができた。

 男には分に応じた職業はあるし、女には何れも配偶者があった。財貨は地に棄てられて粗末にするようなことはしないが、必ずしも自分のためにだけ力を用いるようなこともなかった…。したがって策謀する必要もなければ、泥棒や乱賊などの横行する余地もなかった。だから表通りの戸締まりをしておく必要がなかった。
 このような社会を大同といっています。だからロシア立国の主義は、これほどのものでしかないのです。なんで怖るべきことがありましょう…。

 歴史を推考し先見としてこう唱える
 …日本を排斥する強国がロシアをその先駆けとして利用することになれば、独り日本が危ないだけではなく、東亜もまた、それにつれて平和な日がないようになるでしょう。そうすれば、公理と強権の戦いは、もしかしたら、ついには日本では黄色人種と白色人種との戦争と変化するようになるかもしれないのです。

 是非とも知っておかなくてはならないことは、欧州大戦後の世界の大勢は一変したばかりではなしに、人の思想もまたそのために一変したのです。日本の外交方針も必ずこれに順応して改革してこそ、はじめて世界における地位をよく保存することができるでしょう。
 
さもなくば、ドイツの仕損じたことを、必ずまた踏むことになるでしょう。試みにご覧なさい。ホノルルの軍事配置、シンガポールの設備を。これは誰を目標としているのでしょうか。事態はすでにここまで来ているのです。
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 日本が、なおもロシアを与国としないならば、ゆくゆくは必ず水陸両面の挟撃をうけるでしょう。英米の海軍はすでに日本より強いこと数倍です……。孤立している日本が海陸の強い隣国に当たったとしても、どうして僥倖を期待することができるでしょうか。だから親露は日本自存の一つの道なのです。

 最後に、こう結んでいる
 この策は、実に日本が国威を発揚し、世界を左右する遠大な計画であり、興廃存亡のかかわるところなのです。これは日本が欧州対戦の初め、すでにその赴くところを誤り、世界の盟主となる良機を失ったのです。一度誤っているのに、どうして二度も誤ることが許されるでしょうか。ただ、先生(犬養)が詳細にお考えくださって、速やかに対処されるようお願い申し上げるのみです。
 
       民国12年(大正12年)11月16日 広州にて
 孫文から託された書簡は山田によって直接、犬養に届けられている。
 翌、大正13年11月、広東へ帰ろうとした山田に孫文から連絡が入る。
 「私が犬養さんに送った手紙の返事がまだ来ていない。それで犬養さんの真意を確認するため日本へ行くから、君も日本で待っていてくれ」
 孫文は北京に行く途中、日本に立ち寄っている。書簡は支那一国にとらわれないアジアを大局的に見た経綸というべきものである。しかも、日本に対する期待と批判は、民族を越え、死をいとわず協力した日本人同志の心情を背にした警鐘であり、真の日本人にたいする懐かしみが表されている。
 そこには革命家としての孫文の無垢な純情の吐露があり、人間、孫文としての忠恕あふれる熱情でもある。
 

◆西洋覇道の犬か、あるいは東洋王道の干城か
 

11月18日には神戸において『大アジア主義』の演説を行っている。孫文はこのなかで犬養宛に書簡と同様に、日本政府に痛切な猛省をうながし、日中提携によるアジアの復興を訴えている。

 「今後、日本は世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道を守る干城となるか、日本民族として慎重に考慮すべきである」
 “我、何人(なにびと)ぞ”と、果てどもない自己の探求は、まるで逍遥のごとくさまよい続ける日本の国家目標はときに選択するパートナーを間違え、おぼろげな目標に加え将来に取り返しのつかない禍根を残し、近隣諸国の嘲笑と期待していた日本に対しての落胆から怨嗟の念を抱かせている。

 近年のアジア金融危機に際しても緊急の助力を求めるタイ国に対して、煮え切らない態度を示したばかりか、切羽詰まったタイ国は国際通貨基金に条件付きの支援をもとめてが国際通貨基金(IMF)はその資金の拠出を金満日本に押し付けている。

 アジアの中の国として歴史的関係も深く、日系企業の進出などアジア共生のパートナートとなるべき国に対する姿勢はタイ国およびその民衆にしてアジアならざる国として映ったに違いない。フィリッピンのアキノ大統領、インドネシアのスハルト大統領、ミャンマーのスーチー女史、マレーシアのマハティール首相、台湾の李登輝総統といった指導者たちは日本および日本人に何を語りかけているか耳を澄まして傾聴するべきだろう。

 援助を請うために迎合したりはしない。あるいは戦勝気分で恫喝や保証を求めてはいない。
 シンガポールのリークワンユー元首相は米国訪問の際、日本の姿勢を咎める大統領にむかって「日本をそう悪く言わないでください。日本はアジアの兄貴分です」と、堂々とアジア人としての見解を述べている。

 まるで遠大な計画もないまま商国家として栄えたカルタゴのように国家保全を傭兵や財貨によって賄った末路は歴史の実証でもある。
 あるいは勧学文まで出して学問を奨励し朱子学をはじめ多くの学派、知識人を輩出した中国の宗でも明の攻略にひとたまりもなかった。それは学問奨励の掲げた目的は「書中、黄金の部屋あり」「書中、女あり」と、学問をして地位を得れば金と女は自由になるといったような「食、色、財」の欲望を学問の目的として鼓舞したからにほかならない。

 経済や知識は進めば進むほど突き当たり、詰まるようだ。しかし、考えて見ればアジアの思考概念は「循環」と「無」というように無限の繰り返しによって作られている。それは人間を自然界の中で卑小な存在として認識することによって出発し、終結するように、西洋からすれば芒洋として意志を持たない未開に映るかもしれない。

 だか、そこには神の啓示と称して世界を支配する欲望もなければ、再現のない拡大主義も存在しない。天地自然の中に一粒のごとく存在する人間たちの他愛のない作為によって生ずる一過性の現象を鳥瞰して自ずから訪れるであろう結果を歴史の知恵として理解しつつ濁流に遊び身を任せているのだ。
 
それは空虚な妄動や群行群止する民の様相とは異なり、自らの「分」の存在と役割を認めた「たおやかなアジアの矜持」である。孫文ルネッサンスというべきアジアの復興運動は、まさにその矜持の存在を確認することでもあったのです。
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【ミニ解説】
 辛亥革命から十数年、中国はまず袁世凱の支配下にあった。それから北京を制した呉佩孚、段祺瑞、馮玉祥、張作霖ら軍閥の手中にあった。孫文といえば、広州を中心に細々と革命拠点を維持していたにすぎない。

 国民党は孫文の手を離れて北京政府の議会の一翼を担っていたもののそれは形だけのものだった。孫文の国民党は1919年、上海で「中国国民党」に改組され、20年代に入ってようやく民衆の支持を得た革命政党に育つことになる。
 一方、帝政ロシアを倒し革命政権の誕生させたソ連は中国国民党に急接近、1921年からコミンテルンのメンバーを送り込み、孫文に連ソ容共政策を採らせることに成功する。

 孫文は革命における軍事的側面を重視するようになり、1923年に初めて軍事委員会が置かれ、黄埔軍管学校で軍人の養成が始まった。孫文は北伐を計画する一方で、北京政府との話し合いによる和解に最後まで固執し、1924年、段祺瑞の北京政府との話し合いを目指して、上海、神戸を経由して北京に赴く。
 
有名な日中が連携して西洋と対決しようという「大アジア主義」の講演はその際、神戸女学院で行われた。
 北京では段祺瑞とも会談は実現せず、逆に末期がんに冒されていることが判明し、入院後3カ月の3月12日、60歳の生涯を終えた。
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by Ttakarada | 2007-11-06 12:27  

砂的民衆の潤い

 ◆すべて自らに同化させてしまう中国の民
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左端 北一輝  右端 陳基美

 山田は支那の民衆についてこう語っている。
 このような民族だ。握ってもこぼれる。強く握れば握るほど指の間から落ちてしまう。風に乗りどこへでも飛んで行く。だが、潤いがあれば両手に盛ることができる。

 佐藤も民衆の中で得た体験をとおして同様な意味を語っている。
 食、色、財の本性にしたがって天地自然に順応している。例え人肉を食そうが、財によって押し潰されようが、男女快楽の技巧が極まろうが、突き当たることはない。天地の循環の理(ことわり)に添って生きている。
 それはまるで悠久の流れの水の性質に似て、清濁を問わず、方円の形式にとらわれず、しかも人情という潤いの一滴を感知できる包容力をもち、あるときは権力の船を大河という民衆に浮かべ、ときには激流となりいとも容易に転覆させることもできる力をもっている。支配者が変わろうが決して滅びる民族ではない。そしてなによりも人情の意味を知っている。

 しかし、と続く
 この特性は柔軟でしかも粘り強い。どんな外来の侵入者が来ようが、すべて自らに同化させてしまう。とても弱いが力の真理を知っている。
 ジンギスカン率いた元もない、清朝も消えた。
 満州の長老が言っていた。「はやく日本は負けて帰った方がいい。そうしないと日本そのものが無くなってしまう」(新京の魔窟 大観園の親分)
 覇道を抱き、王道を謳って異民族の中を闊歩した四角四面の日本人はどのように映ったのだろうか。

 ◆ただ姓が易わっただけだ  

日本の敗戦が決まった日の朝、城内には青天白日旗が翻っていた。聞いてみると五つの旗を常に用意していたという。日の丸、満州国旗、五星国旗、ソ連国旗、そして青天白日旗。見ると青天白日旗がいちばん高価な布で作ってあった。
 なぜかと聞いてみると
 『張学良になったとき、少しは長く続くだろうと丈夫な生地で作った』と、胸には国民党のバッチがついていた。昨日まで日満一徳万歳を唱えていた民衆とは思えなかった。 
 『ただ姓が易わっただけだ。自分たちの生活は今まで通りだょ』と、まるで淡々と時を楽しんでいるかのようであった。
 土壇場においてもこの様相である。

 それに比べ日本人の打ちひしがれ、惨憺たる様子は、民族の違いとはいえ器の大きさを見せつけられるものだ。
 開拓民を取り残し電話線まで切断して我先に逃げ出す高級軍人、高級官僚。日本人婦女子を騙して集め、集団で売り飛ばす日本人会々長。

 帰国を急ぐ日本人を、さも当然のごとく助ける中国人たち。なかには日本人救護にと馬車百両に食料を満載して届けた中国人もいる。
 その後、この人は敵国を助けた罪で銃殺されたという。危ないから逃げなさいと米国に促されたが、この老大人はこう言ってその地から離れようとしなかった。
「私は人間として当然なことをしたまでだ。困っている人に民族の別はない。お互いさまだ。悪いことをしたのではない。目の前で苦しんでいる人間を無条件で助けたのだ。私は大丈夫だ」

 佐藤は涙ながらに回顧する。
 名を名乗るわけでもなく、名利を得たいがために行ったものでもない。命がけで助けたのだ。
 しかも、拘束された後も堂々とした大人の風格を漂わせていたという。無条件の貢献を生んだ大人(たいじん)の心には、日本の官吏、軍人民間人を問わず、誠の心をもった真の日本人との交流の思い出が脳裏をよぎったに違いない。
 国家民族を超越した人と人との交流の姿を自らの命に賭けて教えてくれた。
 語り継がれる数々の義行だが、どのように継承するかが大切だ。
 生活のためと目先の利益や名誉に、ついつい翻弄される現代人の鑑となれば大人も本望だ。 名を残し顕彰することだけでは大人の徳業には馴染まない。

 それよりも、それぞれ現代に生きるものが大陸の地に建設した満州国という国家存在の史実を認め、功罪の有無を問うこととは別に、平時なら居留民を守る立場にある軍人、官僚に見捨てられ、打ちひしがれて日本に帰還する土壇場の状況を想定して己の人生と心に問いかけながら将来に行動することだ。
 日本の有史以来はじめての体験だったが、土壇場における日本人の姿として忘れてはならないことだ。
 大人の名は確か、王荊山さんという人だ。



王荊山 遺子と孫
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by Ttakarada | 2007-11-05 13:54  

亜細亜的大人 孫文


革命の事績は後世の歴史家や政治家によって作られる。
 学者および知識人と称せられる人達によって、何年何月といった年次をなぞることに無謬を論証し、月日が違えば記録や記憶そのものの信憑性が疑われるといったことにもなる。
 あるいは、体制の正当性を唱えるがあまり作為的に変更、創作、解釈が行われることもある。ひどい例では事実そのものが消去され、虚飾に満ちた歴史が一人歩きする場合がある。
 
 孫文についても例外ではない。それは革命の目的となった理想に向かう志操を主な観点として見なければ本質は浮かんでこないということだ。
 
◆革命は九十九回失敗しても  

幼少にあった孫文を感動せしめた事件は、洪秀全を頭目とした太平天国の乱であり、それを民族の問題として説いて聞かせた長老の言葉がその後の精神的躍動の出発点であった。年齢を追うごとに集積される体験的習得は、他人の観察にさまざまな評論を生むことにもなる。

 『本立って道生まれる』という言葉がある。
 その意味は知識、技術を学ぶ以前にまず心身に浸透しなければならない人間探求というべ基盤作りが前提にあってこそその後に学ぶことが活きるということである。ややもすれば人間の頭に入った知識や技術が人間の欲望の為のみに使われるものではなく、自然界に現れる森羅万象を感動や感激をもって心身に受納できる箱が「本」というべきものでしょう。

 そのひとつに幼少時に習得すべきといわれる『小学』という学問がある。
 万物の中での人間生存の部分的役割りを、躾(習慣性)や道徳といった動物とは異なる人間性を自得する学問であり、他から教授されることにより長幼の別や、自分と他人の存在を認知することにもなり、そのことによって自分の役割を知り、社会性の芽生えとともに理想と現実の狭間から問題意識の高まりを可能にして、以後の行動の原点を確立する。

 佐藤は孫文から学んだ事として次のように語っている。
 難解な問題より、無垢な良心からものごとを観察して、なにが本当の問題なのか見つけなければならない。まず好きになれ。そして楽しくなくては学問ではなく行動もない」と言い、しかも「その行動の表れは、歴史の事象を分析したり、整えたりすることによって歴史を知識としてのみ分かるといった文献学や口耳四寸の錯覚した学問ではなく、事象の発生に必要な精神や思考の原点である『万人が心の秘奥で理解し、だれでも生まれもって保持している篤心をつねに錬磨する学問』を、行動として実践し実証することでもある
 孫文の革命は『小学』によって育まれた人間のあるべき姿を見つめ直し、放たれた良心に覚醒を促し、幼少のような無垢な感動、感激の存在を再度確認すべく起こした行動とみるべきだろう。
 
歴史上、まれにみる純粋さが表現され、そこには老獪さや、したたかな計略もありません。孫文は困難を目前にして山田に語りかけている。
 革命は九十九回失敗しても、一回成功すればいいんだょ。失敗は恐れてはいけない。至誠は必ず通ずるものだ。明治維新と日露戦争の勝利はアジア復興の前段階であり、支那の革命はその結果となるものだ。

 俗世でいう地位、名誉、権力、財力の追求はそこにはない。孫文は無頼漢を組伏せる体力もなければ、軍略戦闘の専門家でもなければ詐術もない。集積された名声はあるが、針小棒大な噂話として宣伝されたにしても革命頭領にはなれまい。

 それならばなぜ革命蜂起が可能だったのか。
 孫文は、自らの行動によってその答えを明確に表している。それは、だれでも理解可能な行動を、だれでもできることとして具体的に見せただけなのである。
 革命そのものを人間(人格)の問題として捉え、純粋にそれを追い求めたことは、異なる民族にも超越した共感となり、東洋の王道の実践者として多くの同志が身を靖献したのである。確かに、歴史の分岐点としての「時」と、日本から起こった改革に連動する「機会」や、人心掌握の「能力」と、アジア復興の「大局的意図」と、支那の権益を確保しようと日本との諸刃の剣というべき力の活用の「戦略」が革命の成功要素にあげるものもいるだろう。
 しかし、それだけでは公(おおやけ)を説いての革命は成就しない。

 しかも、支那における何千年にわたっての政変は、一時の賛歌を得た支配者の末路を栄華没落の写し絵として、民衆の権力の見方や順応方法として、したたかに眺めることが生存の方便として染み付いているのである。

 そのために民衆は『秘めた人情』といった心の潤いに生きる糧を求め、地縁、血縁、職縁に生活保全のもとを置きながら支配者と共生したのである。権力者や縁の異なるものに対しては虚偽と作戯をいとも自然に醸し出せるしたたかさをもつ大衆だからこそ、たとえ異なる民族であろうが人情を認めたものには誠心誠意、応え交歓できる社会を渇望したのだ。
 
◆天恵の潤い  

孫文は呼称、革命家である以前に『天恵の潤い』でもあったのである。終始、孫文の側近として同行した山田がその人柄を述べている。
 1924年 12月25日の深夜だった。神戸のオリエントホテルに頭山満さんたちと泊まった夜だった。夜中に廊下をウロウロしている不審な人物がいたので、だれかと思ったら孫さんだった。
「如何したのですか」と聞いてみたら 

「頭山さんはベットに不慣れだろう。もしもベットから落ちて怪我でもしないだろうか。心配だ」と、人が寝静まった廊下を行ったり来りしていた。
 しかも食事といえば、日本食が苦手な孫さんだが頭山さんに合わせて和食を共にしていた。あの孫文さんがだ。だから皆、孫さんには参ったのだ。

 山田はお金にきれいな孫文についてもこう言っている。
日本に亡命して頭山さんの隣の貝妻邸に居を置いていたころだった。日本の警察が日常行動を監視していた。
 孫さんの荷物は大きな柳行李がひとつあった。
 あるとき開けて見ると本がぎっしり入っていた。中には金銭の出し入れをきちっと記録したノートもあった。しかも孫さんはお金には絶対触れることがなかった。地位が昇れば金(賄賂)を懐に入れる人間ばかりだが孫さんは決してそんなことをしなかった。革命資金は公(おおやけ)の為の資金ということが孫さんの考えだ。だから民族を越え世界中から革命資金が寄せられたのだ。
 
加えて笑い話のようにこう付け加えた。
 孫文先生の亡くなった日のことだ。遺言を残さなくてはならないだろう、ということになり孫文先生の病室の隣で話し合うことになった
 そのとき二通の遺言がつくられた。一つは「余は国民党を遺す…」といったもの。もう一つは家族に宛てたものだ。その中で「自宅を遺す…」と読み上げられた途端、皆から笑いがもれた。なかには涙顔で笑っているものもいた。皆はその上海の家がいくつもの抵当に入っていることを知っているので、そんなものを遺されてもしょうがない、というので孫さんらしい話だというのである。 c0142134_1213643.jpg

 そもそも遺言そのものは書ける状態ではなかった。残された記録では慶齢夫人が抱き起こして云々とはあるが、そんな状態ではない。
 事実、そばにいた自分が知っている。 サイン(自署)はどうするか、ということになり長男の孫科が代筆することになった。孫科は「親父の字は癖があるからなぁ」と、幾度となく練習して“孫文”と署名している。
 
ところが翌日、新聞に発表された遺言は三通になっていた。その一通が『ソビエト革命同志諸君…』とあるものだ。
 当時、コミンテルンの代表として国民党の顧問として第一次国共合作に重要な役割を果たしたミハイルMボロジンと深い交流があり影響下にあった汪精衛が出したものだ。
 しかし、遺言は重要なものだし、だれがどんな意図で書かれたかは後の問題だ。その後の国共内戦を考えれば孫文の余命を計って練られたことは容易に推察できることだし事実だ。たとえ歴史がどのように評価し、あるいはそれが事実だとして定着しようが真実はひとつだ。裏の歴史ではない。真実の歴史だ。

 支那の数千年の歴史の中で刮目すべきは、孫文先生は潔癖だったということだ。名利に恬淡だということだ。西洋列強を追い払い、アジアの再興を願った孫文先生は施政の方法論ではなく指導者のもつ理念を発したのだ。我田引水な忖度ではあるが、そのことについていえば国共両者の遺言の活用方法には意味はある。

 大事なことはこの理念を忘れたことが今までのアジアの衰亡の原因でもあり、この精神を備えるものだけが再興を担える資格があるといっているんだ。
 孫文思想といわれるものは、そう難しいものではない。 公、私の分別と、正しいことへの当たり前な勇気、そしてアジアの安定と世界の平和。そのために日中提携して行こう、ということだ。遺言のことは蒋介石も知っている
 
佐藤は伯父から聞いた話として、台湾の国民党重臣に遺言にかかわる真実を伝えている。山田は一人歩きをした遺言についてこう語っている。

「孫文の精神が民衆のために活かされているなら、だれが作ろうが問題ではない」
また、

「孫文の正統を掲げられなければ民衆をまとめられないのなら大いに活用すればいいし、死して尚、その存在を民衆が認めている証左であり、諸外国がみとめる中国の理想的指導者像である」とも語っている。
 孫文の写真好きについても述べている。


「香港へ向かう船上でのことだった。“山田君、長い間日本を離れているとご両親は心配していることだろうから一緒に写真を撮って送ってさしあげよう”と、甲板に上がったら他に乗船している同志が集まって撮ったことがある。たしかデンバー号だった。みんないい顔をしている。」
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そして…

「最後の船旅で揮毫をお願いした時のことだった。 『革命ならすぐにやれと言われればできるが字を書くのは苦手だなぁ』と、いいながら書いたものが、先生の絶筆になった『亜細亜復興会』だ。
そのとき孫さんは右手で『ストマックが痛い』と腹を押さえた。自分は “孫さんストマックは逆ですよ ”と言ったら『そうか…』といって黙っていた。孫さんは医者だが体を治す医者じゃない。天下を治す名医なんだ」

 佐藤に語るときの山田は記憶をたどりながら孫文との思い出に浸っている。とき折、瞳は潤いを増し虚空をさまよっている。
 それは猛々しい革命家の姿ではない。兄、良政と共に挺身した孫文への回顧とともに、師父に抱かれ育まれた志操の遠大さに、我が身をどのように兄と同様に無条件に靖献できるかを巡らしている弟、純三郎の姿である。
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 靖献(せいけん)
   心安らかに身を捧げる



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【ミニ解説】 孫文の遺言
 余、力を国民革命に致することおよそ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあった。40年の経験の結果、わかったことは、この目的を達するにはまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、共同して奮闘せねばならないということである。
 現在、革命はなお未だ成功していない。わが同志は、余の著した『建国方略』「建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続いて努力し、その目的の貫徹に努めねばならぬ。最近われわれが主張している国民会議を開き、また不平等条約を廃除することは、できるだけ早い時期にその実現を期さねばならないことである。(要訳)
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by Ttakarada | 2007-11-04 12:03  

責は自らに問う


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 海峡に対峙する両雄の鎮まりを招くことであったはずの山田純三郎の行動は直前になって中止となる。アジアの安定が世界の平和を招来するであろう大事の直前での挫折は、佐藤慎一郎の悔しさにも増して山田の慚愧でもあった。
 たとえごく近い縁から生じた障害であっても超越した行動をとろうと思えば可能であった。且つ、押し通す力は山田にはある。

 しかし、山田の決断は瞬時にくだされた。それはたとえ成功したとしても山田の心中の秘奥に存在する至誠に恥じることであり、また自らに課した到達点である亡き孫文への許されぬ醜態でもあった。それは縁者の入国手続きから起こった。

「いま飛行場の入管で調べられています」
 調べられているのは縁者の在職する某商社の暗号文を所持していたためである。

「内容は…」
 報告する者も言いよどんだ

「実は…」
 山田は言葉を詰まらせる使いの者を直視して尋ねた。

「すべてを話してほしい」

「貿易商社が日本の本社と連絡用に作成した暗号文が見つかったのです」

「それがどんな問題なのだ」

「暗号文の内容が問題です。もし我が国で総統が亡くなった場合、中共が攻撃してきた場合、騒乱が起こった場合、などについて我が国駐在より日本本社に打電する暗号文です。しかもその紙片を口中に飲み込んだという情報もあります」

 大陸進攻を掲げ戒厳令を布く国情では諜報行為といっても変わりはない行動である。しかも日本の大手某商社の駐台責任者の行為である。
 商行為でも人情に第一義の信頼性を置く民情であり、国父、孫文のもと総統との革命家同志の間柄である山田の縁者を駐在責任者におく商社の魂胆は、物言わぬ重圧として交渉相手に浸透したはずだ。山田の矜持を理解しようとせず、商行為による財利獲得のみを目的とする海外の現地法人の姿は、混乱の過ぎ去らないアジアの商業覇道として頭をもたげてきた。

 商行為は物流とともに人情の潤いを添え、それぞれが暗黙の了解事項として成立させることが交易業務の円滑さを図るためには必要なことでもある。『賄賂』を称して『人情を贈る』といった民族習慣になっている場合でも、円滑化のための知恵は、財を得るための「才」を認め、高める効用にもなるだろう。

 『逢場作戯』(その場その時々で相手に合わせて演技する)や、詐術はここでは問うまい。あるいは厚黒学や貨殖伝の応用もあるだろう。しかし、大前提となることは行動圏の市場に対する最低限の掟の順守がなければならない。とくに外国交易を行う場合、当事国の歴史、民情、政治情勢に一定の理解と涵養がなければ単なる謀略利得の行為と化してしまうだろう。
 語学が堪能だ、人脈がある、といったことのみを商行為の有利性として海外に派遣する国内における責任者の欠落した観点は、アジアの歴史に繰り返される島国日本の致命的欠陥でもある。
 
商社としてはつねに行われていたことが発覚したともいえるが、まるで時を計ったかのように山田の行動を妨げたと同時に、表面の静けさとは反比例するかのように胸中の秘めていた純情な琴線に触れてしまったのである。

 山田とて三井の社員として上海で満州の石炭を売っていたことがある。その経験からして商売意識の許容する範囲の理解は深い。それゆえ逸脱した縁者の行為は、自らの責めとして恥じるとともに、軍の袖に隠れ満蒙、支那の利権の買収、収奪を企て、孫文の革命を終始疎んじた日本人そのものを顧みて無言の怒りと悲しみを覚えたのだ。

 如何なる民族といえども色、食、財の欲望を満たすための究極の手段である戦闘行為を除いては民族特有の商風を醸し出してはいる。駆け引きや情報収集と称する諜報、謀略も当然あるだろう。

 なかには相手を利敵の対象としてみる一団もあれば、財利の循環を前提とした同種同業の育成や活用を商い気質として、天地の空間でダイナミックに存在し、滅亡することのない悠久の歴史の中に存在している民族もある。
 山田は「商」の分際を認識し、ときに自身(商人)の存在を直視し、その存在を感謝しつつ、しかも交易を臨機の潤いにしなければ、商が万物の用を成すという存在意義から逸脱し、害や罪に化してしまうことを歴史の検証として理解している。

 貿易商人の堕落は、アジアの大志を抱いて孫文と共に苦闘した継承すべき辛亥革命の精神的変質でもあり、人間の劣化という観点でみた山田の憂いと言い知れぬ寂しさは、自らの途を断ち、辞して発芽の来復を待つといった境地に、自らを追い込むものであった。

それは当時の日本及び日本人としての無条件の行為に根底にある貪りを自己で規制する という、覚悟に似た矜持であった。それは革命成功の成否より優先されるべきという山田の兄である良政の遺訓でもあり、異民族の中にあって慎重に留意しなければならない普遍的意思の行動具現でもあった。
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by Ttakarada | 2007-11-02 18:32  

幻の毛沢東、蒋介石会談



滞在から数日して山田が真剣な顔で佐藤に伝える。
「じつは蒋さんの依頼で大陸へ行く」

「大陸って、中共ですか」

「毛沢東主席に会う。慎ちゃんもいっしょだ」
 佐藤は驚いた。蒋介石は常々大陸進攻を唱えている。それが毛沢東主席と…
 しかも伯父さんが…
 山田はあえて事務的に指示をあたえる。

「廖承志さんを通じて毛主席には伝えてある。廖さんの母親が上海に迎えにくることになっている」
 廖承志の父、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は孫文の革命に山田とともに奔走した革命の同志である。その息子の廖承志は、子供のころに山田の腕であやされていた関係である。
 後年、廖承志は中日友好協会の代表として来日すると、まずはさておき山田の家を訪問している。こんな逸話も残っている。
 
大阪万博のおり、会場には中華人民共和国の旗、中華民国々旗である青天白日旗がひるがえっていた。それを知った廖承志は青天白日旗を降ろせという。ある識者はいう。
 そもそも青天白日旗は台湾の旗ではない。もともと台湾に国旗などはない。青天白日旗は中華民国を創設した孫文先生が認めた旗だ。あなたの父親は革命の志士として亡くなったとき盛大な葬式が挙行された。
 その柩は多くの人々の犠牲によって成立した中華民国の青天白日旗に覆われていた。 
 あなたの父廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民の悲しみのなか、国家と家族の安寧を願って旅立ったのだ。
 その国旗に覆われた柩にすがりついて泣いていたのは君ではなかったか。

 そんなエピソードではあるが、政治的立場と普遍的な人情は分別できる人間である。
 その廖承志が大役を引き受けたのである。山田を迎えにくる母親の廖香凝も中華人民共和国の要人である。双方、国際的事情もあろう。複雑に入り組んだ国内事情もあることは推察できる。

 だが、ともに国父と仰ぎ、けっして侵すことのできない孫文の存在を想起するなら『小異を残して大同につく』といった中華民族特有の思考を活用する大義も生ずるはずだ。
 幼稚で騒がしい知識人や、歴史を錯覚した政治家の類いをしたたかに排除した両国民衆は過去の恩讐や民族を越えてアジアの再興を願った孫文の大経綸に賛同するだろう。
 それはアジア諸国の期待でもあり、もちろん日本も例外ではない。   

 父の柩に涙したものは体制に翻弄された民衆の意志であり、廖承志の心そのものであろう。履歴を積み、縁あって両岸に対峙する毛主席、蒋総統にしても冷静にして自らに立ち戻ったときリーダーにしか垣間見ることのできない境地が存在するはずだ。
 廖承志はその意味を知っている数少ない幹部の一人でもある。毛沢東も蒋介石も解り得る人物である。分析、解析、思惑、作為は仲介当事者である山田にはない。まず毛主席に会って、顔を観て、声を聞いて話はそれからだ。

 死地を越え、孫文を心中に抱いた山田に気負いはない。緊張するのは両巨頭のほうだろう。
 山田は大事を前にして、郷里弘前の思い出や兄、良政に随うことによって生じた孫文との出会と革命の回顧、そして蒋介石との縁、そしてこのたびの行動を想い起してみた。孫文先生や兄、良政ならどうするだろう。

 1911年10月10日 革命が武昌で成功を収めた日、アメリカにいた孫文は急遽、帰国の準備を整え、上海にいた山田に打電してきた。

「横浜を通過して帰国したいから日本政府に了解を取ってほしい」
 山田は犬養毅に依頼したが日本政府は拒否。やむなく大西洋を迂回して香港に到着したのは12月21日だった。山田は宮崎滔天、胡漢民、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)とともに香港に迎えに行く。陸路北上は危険だから広東で様子を見るように勧めるが孫文は上海に向かうという。その上海に向かう船上でのことである。

「山田君、資金を作ってくれ」
 思い立つとせっかちと思われる指示のはやい孫文である。

「幾らぐらいですか」

「多ければ多いほどよい。一千万でも二千万でもいい」
 明治時代の一千万、山田にとっては見たこともない夢のような金額である。

「私にそんな大金は用意できない。無理です」
 いくら革命に必要だとしても一介の満鉄の職員にはどだい無理な話だと端からあきらめる山田に孫文は毅然とした姿勢で言った。

「たかが金の問題ではないか。しかもここは船の中だ。君はまだ何一つやってもみないででできないというのは、いかん。君のような考えでは、革命はおろか、一般の仕事だって成功するはずはない。上海に着いたら三井のマネージャーに相談しなさい。革命は何事も躊躇してはいけない」

 山田は静かに厳しく諭された孫文の言葉を反復した。
 こんなこともあった。中華民国臨時大総統に就任した孫文が南京にむかう車中のことである。当時、国旗が制定されていなかったので末永節は日の丸の小旗をたくさん抱えて同乗の皆に配った。

 豪気な末永は「孫さん万歳、染丸万歳」と孫文の頭を祓う格好をしながら繰り返した。車中は中国人も日本人も「孫さん万歳」の声で埋め尽くされた。
 頭山満、犬養毅とともに国境を越えた行動力と胆識をもった末永の豪気は、孫文をして民族融和の必要性を見たに違いない。 c0142134_21491893.jpg

 余談だが革命初期は、運動会で使うといって日本でつくらせたのが革命党の旗である。末永節は今の福岡にあった頭山満主宰の筑前玄洋社出身で頭脳明晰で豪胆な人物で、幕末に来航した黒船に乗り付け日本刀で船腹に切りつけたが歯がたたない。ひるがえって意識転換できる開明的なところがある。ふだんは褌もつけず素っ裸で庭掃除をするような豪傑でもある。臨時大総統をつかまえて「染丸万歳」とは末永らしいエピソードである。
 ちなみに染丸とは日本に亡命中知り合った女性である。

 南京臨時政府が成立し、国号は「中華民国」と宣言されたその翌日のことである。祝宴のドンチヤン騒ぎで今までの労苦を吹き飛ばしているさなか孫文が山田に言った。

「山田君、君はこれから上海三井の藤瀬支店長のところへ行ってください」
 孫文は三井と軍資金借用の件で約束をしていた。山田は祝宴の酒が手伝ったのか軽口をついた。

「商人の話なんか、そうきっちりとは、いかんですよ」

「山田君、君はまたそんなことをいう。藤瀬さんは一週間といっただろう。約束は約束だ。まだ本店から返事がきていないならそれでいい。できる、できないは別問題だ」

 以前、上海へ向かう船上で諭された時と同じように、山田は約束の重要さと積極的な行動について教えられている。

 孫文は山田の兄、良政との義侠の縁とはいえ純三郎をわが子のように慈しみ、あるときは叱り、又、あるときは激励しつつ共に分かち合った革命成功への感激と感動の体験を積んでいる。孫文が山田の父に贈った『若吾父』(吾が父の若(ごと)し)という感謝の書はいかに山田兄弟とのかかわりが誠実な関係であったかを表わしている。

 その関係からして確かに、今度の毛沢東、蒋介石交流の仲介に山田は最適な人材であろう。どちらに与する利なく、まして施して誇るような心地はない。抱く心はアジア諸民族が提携することによって平和の安定を確固たるものと希求した孫文の志操そのものの具体化であり献身である。

 あの日、宋慶齢夫人に促され「山田さんお願いします」と、ガーゼで孫文の口元に注いだ水は孫文の意志継承の神聖なる伝達であり、自らの生涯を真の日中友誼に奮迅する誓いでもあった。こぼれ落ちる涙は孫文の頬につたわり、まるで孫文のうれし涙のようであった。

 生涯の大部分を理想に燃える革命家として費やし、一時として休まることのなかった心身の躍動が、独りの孫逸山として己を探し求めた結果の答えとして、魂の継承を山田が受納する瞬間でもあった。
 
 それは革命精神の継続性だけではなく、終始行動を共にした孫逸山そのものの気風の浸透であり、むしろ悲しみの涙ではなくアジア王道である桃李の地への旅の潤いとして降りそそいだ。それは民族を越えた孫文の普遍なる精神が結実した瞬間でもあった。
 師父の死は山田にとって新たな革命の出発でもあった。それは支配者の交代といった功利に基づく覇道ではなく、あくまで東洋的諦観による王道の実践であり、遺志の継承であった。
 毛沢東、蒋介石仲介という大業に臨む山田の沈着さは、まさに郷里津軽で仰ぎ見た岩木山の風格であったと佐藤はいう。


  「桃李」   桃李もの言わず、下おのずから路を成す。
  人も徳が高ければ自然と人々が集まって付き従う(講談社編)
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by Ttakarada | 2007-11-01 21:53