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山田良政建碑紀念の碑(直訳)と孫文哀悼の文


その志,東に於いて嗣ぐものあらんことを

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孫文の山田良政を悼む追悼原文

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弘前 山田家墓基

君の兄弟は、ともにふるって嘗って力を中国の革命事業に致す。しかるに君は庚子(1900年、明治33年)。恵州の役を以て死す。後十年にして、満州政府は覆える。
初め余は乙未(1895年明治28年)、粤(広東省)を図りたるも威らざるを以て海外に走る。(孫文は、11月12日神戸着)。

すでに休養すること 、党力復び振るう。余は乃を鄭士良をして、 を率いて先ず恵州に入らしむ。余は日本軍官多人と偕に、香港より内地(中国大陸)に潜注せんとす。(山田)君は、実に随行せんとす。巳は 密告し、陸に登を得ず。乃ち復び日本ひ往き、転じて台湾に渡る(9月28日、台湾基陸着)。

時の台湾總督児玉(源太郎)氏は、義和団乱を作し、中国の北方は無政府状態に陥りたるを以て、則ち力めて余の計画に賛し、且つ後援を為すことをもかぶと允す。
余は遂に鄭士良をして、兵を発せしむ。士良 を率い、出て新安、深 を攻め、清兵を敗り、 その械(武署)を獲る。龍図・淡水・永湖・梁化・白芒花・三多祝などの処に転戦し向う所みな捷つ。遂に新安・大鵬を占領し、恵州海岸一帯の沿岸の地に至る。
以て余と幹部人員の入ることと、武器の接済(供給救済)を待つ。

図らずも恵州の義師(義兵)発動して旬日にして、日本政府更換し、新内閣總理伊藤(博文)氏(10月19日、新内閣成立)の、中国に対する方針は、前内閣(山県有朋總理)と異なる。則ち台湾總督を禁制して、中国革命党を通じることを得ず。また武署の出口(輸出)及び日本軍官に投ずる者を禁ず。
而して余の内渡(中国大陸潜入)の計画は、之が為めに破壊す。

 遂に(山田)君と同志数人を遣わして、鄭軍に往きて情形と報告させ、その機を相して便宜に事を行わしむ。(山田)君は間道して恵州に至りしも、巳に事を起こしてより後三十 日に在り。
士良の部る(統率する)ものは、連戦月 。幹部軍官及び武器の至るを渇望すること甚だ切なりき。
忽ちにして君の報告する所の消悉(消息)を得。
巳むを得ず、 を下して解散し、間道して香港に出ず。随う者なお数百人。

しかるに君は路を失い切なるを以て、清兵の捕らえる所と為り、遂に害に遇う。 し外国の義士にして、中国の共和の為めに犠牲となりし者は、君を以て首めとなす。 論ずる者は、みな恵州の功無くして、非戦の罪を曰う。

日本政府をして、やはり前内閣の方針を守らしめなば、則ち児玉氏、中変(途中にして変更)するに至らざれば、即ち我が為めに援助せず。しかし武器の出口(輸出)及び将校の従軍者を禁制と為さざれば、則ち余の内渡(中国大陸に渡る)の計画は破れず、資けるに武器を以てし、また兵を多く知る者之が為に指揮せんか、まさに士気 (高揚し)、鼓行(堂々と進軍)して前まん。天下のこと

しかも革命軍はして、この挫折無かりせば、則ち君は断じて以て不幸にして (殺さ )せらるるに至らざること、抑も論を持たず。然るに君は、曽ひ政府の 厭(革命軍に対する好悪の態度)を以て意と為さず、命を みて険を冒す。

死すると も辱じず。以てその主義に殉ず。 によくなし難くして貴ぶ可き者なり。
民国成立して七年。君の弟山田順三郎始めて君の骨を以て帰りて葬る。
今また君の為めに石に み、以て後人に示す。

君の生平(平常)の (正しい道にかなった行い)は、君の親族交遊、よく之を述ぶ。
余の言を と無し。余は君を重惜(非常に惜しむ)す。故にただ君の死に至りし本末を挙げ、表わして之を出すのみ。
更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを

by Ttakarada | 2007-11-14 09:37  

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