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あとがき

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「研究、分析は学者に聞け。作り話は小説家に任せ、今、残すべきことは関係者の体験をたずねて可能な限り継承することだ。しかも孫文にかかわった日本人は少なくなっている。皆、年をとったため体験した年月は明確ではないかも知れない。しかし、年寄りの思い出話というものは功利的な世の中では真剣に聞く人もなければ、感動と感激を得る根本価値も今はない」


「神棚の御本尊ではないが普段は必要のないものだが、せいぜい正月か、困ったときのお願い事のようなもので、普段はほこりだらけ。だが請われればいつでもいやな顔をせずに舞い降りてくるものだ。年寄りの思い出話とはそのようなものだが、尋ねるものがいる限り口舌の乾くことも忘れて話し続ける楽しみもある」
 

筆者の周辺にはこんな先輩が大勢いる。
 20代に縁があって満州関係のご老人の会に招かれた。皆さん60代後半から80代の矍鑠(かくしゃく)たる個性ある30名ほどの方の集まりだった。戦後教育では教えられることのなかったような、さまざまな体験が披露された。
 通称高級軍人、高級官僚、満州鉄道関係者、あるいは開拓民として移住した方々が激論を戦わす。そんな中で戦後生まれは筆者一人である。ところが言い争っているような妙な雰囲気があるのに気が付いた。

 たしかに植民地官僚と敗軍の将。それら組織とつねに軋轢を起こしていた満鉄関係者や民間人ならば当然ことのようだが、とにかく元気がいい。満州はおろか日中近代史の裏面にも話題が及び、平成の御代に歴史の謎とさえいわれていることが当事者の口から弾むように飛び出す。

 筆者自身、生まれる以前の歴史の臨場感をいやおうなしに味わわされた。そして若年ではあるが、過世代の存在と意義をおぼろげながら感じたものです。
 会の名称は「笠木会」といって、満州建国の精神的支柱だった笠木良明を偲ぶ会ではあるが、満州では対立関係でもあったさまざまな方の呉越同舟の趣があった。世間では戦後政界の黒幕、代議士、一流企業人、大学教授、歴史研究家など、当時日本を動かしている満州人脈というべき顔触れである。

 言い争っているさなかに一息入れるつもりなのか、はたまた「おまえはどう考えるか」などと話を振られることがある。筆者にとっては偉いも偉くもない。いわんや満州などという言葉は知っているが細目は知らず。ただ世間でいうところの大ボス、小ボスとは違うことは理解できる。
 笠木の遺影の前で、当時と同じ激論を戦わしている弟子の集まりである。一般社会とは違って、普段、言葉に出したい意見があっても"唇寒い"などと遠慮することもなく、根本さえ外さなければ何でも通ってしまう。その根本は地位、名誉、財力、学歴といったことに「卑しさ」を持たないことであることは同感であるし、「公」と「私」のわきまえさえ明確なら「長幼の序」は後回しになるようなおもいがある。

 何を発言したのかは思い出せないが、毎回お鉢が回ってくる。すると激論がなかったかのように老教授が
「われわれはこの若い世代に何を遺すのか。一番よい方法は年寄りは早く死ぬことである」
 一瞬、場が白けるが、笑う人、うなづく人、「そのとおり」と声を上げる人、さまざまではあるが怒る人、嘲笑する人は一人もいない。
 平均年齢を下げていると冗談を言っている筆者だが、議論や受容の柔軟さは筆者も舌を巻いた。

 笠木良明のエピソードの中でこんな話があった。大川周明、北一輝らのある会に呼ばれたとき黙って聞いていた笠木は
 「おれはポチではない」といって席を蹴った。
 ポチとは愛玩犬のことであり、あまり吠えないおとなしい犬のことである。
 また、滝に打たれ修行することを例えて
 「滝に打たれて人間ができるなら、始終、滝壺に打たれている鯉のほうがもっと立派だ」

 そんな笠木を懐かしむ人々の集まりであるが、いやおうなしに満州や大陸、そこに住む民族や歴史、日本とのかかわりが老先輩の雰囲気と相まって興味をそそられたわけです。縁は自らが望んで得られるものもあるが、いつのまにかその世界に入り込み感動や感激をとおして自分の役割を自覚し、なにがしかの成果を得て悦に入ったり、あるいは挫折して縁を恨んだりすることもある。
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 またそれを総括して"縁は不思議なもの"とか"運命"や、はたまた"宿命"などと思い込んで己の人生を限定したり、あきらめたりすることが多いようだ。そのようなとき明治の先輩は筆者にこう言い切った。
「縁は己の宿命に訪れるものではない。宿命を自他の尊厳の中に見いだすとき感謝になり、その命に報いるということが分かれば本当に"宿った命"を知ることになる。
しかしそれから先は自身のためにも、あるいは自身の存在を社会の中で明らかにするとして利他に役立つ存在となるように心掛ける"立命"になる。利己的な欲望に埋没していると宿命や自己そのものに怨嗟の気持ちが起きるものだ。まさに自己の崩壊や確立の前提は、"自分は何物か"ということの追求の単なる結果に過ぎないものだ」


 また文章についてもこう述べている。
 「うまい、へた、ということは技術の問題だ。分かりやすいということはその人に合っているということだ。継承すべき人間の事象を著すには流行(はやり)に迎合するものであってはならない。いつの世でも感激感動を通じて触発され、君と同様な志操をもって至誠の循環は訪れる。人間を学び歴史に思いをいたすとき、そのことは将来の確信として心に宿るものだ。俗世の評価や人格となんら関係のない付属性価値の評価を恐れてはいけない。ただ君の至誠に恥じることがなければ世界は動くはずだ」

 初対面の老人であった。茶菓子を口元に運ぶしぐさが妙にゆっくりと感じられる。お互いに年はいくつなのか、何をしているのか分からないまま長時間を費やしていた。明治に共通していることだが、玄関先から道路の角まで見送る優しさは、一期一会になるかもしれない自己への緊張と厳しい生きざまの姿がある。

 道すがら同行した老人に「あの方は…」と尋ねると、「安岡先生だ」。
 続けてこう述べた。
 「今日の印象そのままでいい。あとはおいおい分かる。ただ歳は君のほうが若い。しかし頭はかなわんよ。ワハハ」  こんなことを試されたことがある。数寄屋橋街頭で演説している赤尾敏氏の意見を伺うために大塚の道場を訪問した折り、不遜にも長時間にわたり抗論したことがある。
「演説の最後に天皇陛下万歳を三唱しますが…」

「別に天皇個人の健康や個人的もろもろのことを願っているのではない。日本万歳、日の丸万歳と唱えてもいいのだが、ともかく日本の象徴であり、その意味で日本全体の安寧を願って"天皇陛下万歳"と唱えている」

「ロッキード事件のときにアメリカに行ったそうですが」

「総理といえば一応、政治上の代表者だ。それが車のケツとケツをつけて金の受け渡しなど日本人として恥ずかしいことだ。そこで市川房枝と一緒にアメリカにいった。アメリカではアパッチとババアが来たと話題になった」
>「安岡先生とは…」
 一瞬真剣な顔をして筆者を凝視した。
「安岡か。あれは行動力が無い。考えてもみなさい。日蓮、マホメット、キリストは命を懸けて時の権力に諌言したんだ。日蓮は火あぶり。キリストは、はりつけだ。いまの日本ではそんなことはないがだれも言い切らん。安岡も同様だ」

「安岡先生は、暴力は一過性だ。だから自分は長い目で見た国家の岐路に役立つ人材の育成に、生涯を懸けるのだとおっしゃっていますが」

「ことは勇気の問題だ。君は分かっているのか」

「確かにその辺の陣笠代議士や商売人が"安岡先生の謦咳に接した"とまるでマスコットが説いた言辞を、意味も分からずチャツカリ寸借しているものや、ひどいのになると安岡ブランドで飯を食べているものもいる。たしかに弟子と称しているものの中には固陋な考えをもつものもいる、地位や名誉に卑しいものもいるが自分は違う。先生の説いたものをいかに活用するのも人間の問題です。」  

どれくらい抗弁しただろうか。安岡家に連れていってくれた老人に促されて訪問した赤尾氏の道場だが、その老人は黙ってその様子を眺めている。
 老人がいうには
「赤尾氏は真っ赤な顔をして乗り出し、君は真っ青な顔をして引かない。まるで浮世離れした鬼ごっこのようだった」

 突然、赤尾氏は好々爺のように顔を崩して、
「分かった。君も若い。君の思う通りに進んでみたらいい」
 好々爺赤尾はもう一つの明治をおもしろい話として伝えた。
「このあいだ細川隆元が"赤尾先生、先生が亡くなったら数寄屋橋に銅像が建ちますよ"言論貴族のあいつらしいひやかしだが、こう返しておいた。"死んだら銅像などといわずに、君の出ている番組で赤尾の言い分を正しく伝えたらどうだ"と言ったら黙っていた。いちど市川房江とテレビで話してみたら皆、びっくりするだろう」

 一般には赤尾氏自身がいうとおり容姿は怖い、言論は辛辣な赤尾氏だが、四十数年数寄屋橋の同じ場所で唱える弁舌は一服の清風として聞き取れるようになったのはそれからのことである。
安岡先生の没後、自宅に伺ったおり奥様から
「よく笹川(良一)さんがジョギング途中立ち寄ってメロンを食べていきました。それと赤尾敏さんもよくいらっしゃっていました」  

何もいうことはなし。いまさらなにをいいたくても冥土に招かれるまでの辛抱だ。筆者を言論によって、これでもかと追い込んで試そうとする明治気質の真剣さは、明治の日本人を追い求めるものにさわやかな教訓として優しく示してくれる。明治には自分たちが失った何かがある。
"今のうちに明治に会ってみなさい、雰囲気でもよい、触れてみなさい"と、人に会うたびに勧めるようになったのもこのころからである。
 

日本はアジアの一部分  アジアは世界の一部分


今どき、職分が異なる近代日中史に興味を持ち、しかも明治人の活躍した歴史や人物に添って日本人を知ろうとすることなど、今までの筆者の世界からすればまさに"病気"そのものである。なかには仕事でもなければ、金にもならないことを費やしているなどと身近な言葉に躊躇することもあるが、いつか役に立つことがあるだろうと人生の刻を積んでいる。

 そのなかでも中国人、しかも庶民の立場から見た歴史をたどると、筆者なりに孫文と日本に行き着くのである。老先輩の話に興味を引かれると台湾へ飛んで西安事変の生き証人を尋ね、老婦人には妻の見た革命や夫の人柄を伺い、「先生(夫のことをこう呼ぶ)は自分を捜し続けて一生忙しく動いていました」と、自ら語りだした。
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 青年が民主化を唱え、「官倒」を掲げて天安門を占拠したと知れば言葉を解さないことも忘れ戒厳令下に身を置いたこともあった。英国植民地、香港の事業にも試行した。

 辛亥革命に挺身した日本人がいると教えられれば、出生地の育んだ環境に身を浸して歴史に思いをはせる。山田兄弟の生地である青森県弘前市も恒例になっている。
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歴史の必然を逆賭する 

植民地の解放、香港返還、アジアの復興、そして再度の人為的金融危機によるアジアの衰退。どうするか、どうなるかと、混迷しているアジアの人心は経済繁栄によって錯覚した功利主義に、自らの手によって陥れた結果である。

 近代アジアにおいてはつねに西洋の影響力の下、基盤のもろい繁栄と平和をコントロールされてきた。ときおりパートナーを替える国もあるが、つねに背景の意向をおもんぱかるために民生の安定や政権の信頼さえ得られないことがあった。それはアジア人らしくもあるがアジアの姿の崩壊のようにもみえる。
 
歴史を唯一の教訓とするならば、孫文の唱えた西洋覇道と東洋王道を問い直すまでもなく、地域、伝統、あるいは大局的にも世界的位置を再考する機会が、振り返ればそこにあるということを教えてくれる。つまりアジアのパートナーはつねにアジアを念頭に置かなければならないと教えてくれる。
 
現状からみれば、その機会をとらえ、メッセージとして発言できるのは大国の趣を増した中国であり、悠久の歴史を刻む民族の知恵であろう。加えて、それを補うのは台湾であり日本であり、世界の中でのアジアの存在意義を自覚した民衆でもあろう。

 天安門広場に集まる若者の背景に孫文がいた。台湾(中華民国)もしかり、政体を違えた両国の国父は孫文であり政権政党にも侵すことのできない偉大な存在であり、ときには苦慮する民衆の秘奥の光明でもある。

 異民族ではあるが、我が国もアジアの熱狂と衰退の予兆を、孫文の志操から透視する人々が存在する。それは、真の日本人の姿を普遍なアジアの眼で認めた孫文が、命懸けで革命に挺身した志と遺訓が、いまでも日本の各地に息づいていることも事実である。

 アジア人がアジアを知り、全アジアを視野にいれた安寧を願うとき、先人の遺したアジア人としての矜持を顧みて懐かしく思うことだろう。そんなとき片隅の継承ではあるが、孫文が唱え、希求したアジアの「大同」が、各国固有の民衆が、共通のアジア民族として再興するであろうことを、おせっかいながら筆者の推究と目標の意として記したものです。
 

by Ttakarada | 2007-11-24 10:06  

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